(179) “たとい法令にそむいても私は王のところへ参ります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。”

2006年に映画化された「One Night with the King」(日本語タイトル:『プリンセス・オブ・ペルシャ』)のもとになっている聖書の中の書物『エステル記』の主人公エステルは、彼女の同胞であるユダヤ民族のいのちを救うため、自分のいのちの危険を顧みず、法令にそむいて王の前に立ちました。(結果は、自分のいのちもユダヤ民族も助かるのですが…) あなたは何か「いのちを燃やす」ことがらに取り組んでいますか?それとも『無難』に日々を費やしていますか?もしかしたら「どうせ自分になんかたいしたことは成し遂げられやしない」と最初からあきらめムードですか?だとしたら、エドワード牧師が遺した次の言葉に耳を傾けてください。「私はちっぽけな1人の人間に過ぎない。しかし少なくとも1人の人間である。私には多くのことはできないかもしれない。しかし何かはできるに違いない。だからこそ、多くのことができないからといって、できることをもあきらめてしまうようなことは決してしない!」 この天地万物をお造りになった神様が、あなたをもお造りになられました。神はそのお造りになられた人間1人1人に「夢を持つ心」をお与えになりました。1人1人違った(ユニークな)夢です。もしあなたがその夢を追うことなしに人生を終えてしまうなら、その夢は永遠に実現される機会を失うのです。ある詩人は次のように書きました。「世界で最も悲しい言葉は、『もしかしたら、こうなれたかもしれないのに…』である。」 あなたの人生はまだ終わってはいません。いかがでしょう?今からでもそのいのちを燃やしてみませんか?あなたの人生の本当の終わりが来たときに「何だか自分の人生は、他の人の目ばかり気にしたものだったなぁ」などと振り返るのではなく、「私は神が私にだけ与えてくれた『夢』を追って、精一杯走りきることができた」と告白できたら何と幸いでしょう。その夢を追い始めるのに、まだ遅すぎることはありません!

(178) “あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。”

社会に大きなインパクトを与えるような活動も、大抵の場合『ほんの小さな1歩』から始まるものです。マザー・テレサは「貧しい人々の役に立ちたい」という願いを神様から与えられ、たった1人でインドのカルカッタへ出かけ、誰も関心を払わないような道端で倒れて死にかかっている人々に手を差し伸べました。彼女は社会から忘れ去られた取るに足りない人に、ひたすら自分の心と思いの限りを注ぎ尽くしたのです。彼女は自分のちっぽけな働きがやがて世界中の注目を浴びるなどと思いも寄りませんでした。彼女の心の中には「神の愛に応えたい」という純粋な気持ちだけがあったのです。 もし大きな夢や目標を抱いて毎日を過ごしているのでなければ、私たちが行なっている1日1日の営みはあまりにちっぽけで虚しく感じられるに違いありません。しかしその「小さな営み」がやがてもたらそうとしている『大きな完成』を見つめていることができるなら、たとえ今していることがどんなに小さくても、私たちの心はワクワクしてくるのです。 3人の人々がそれぞれレンガを積み上げていました。1人目の人に尋ねました。「何をしているのですか?」 するとその人は不機嫌そうに答えました。「見りゃあ分かるだろ。レンガを積んでるんだよ!」 2人目の人に尋ねました。「何をしているのですか?」 彼はニヤリとして答えました。「1時間千円さ。結構いい稼ぎだろ?」 3人目の人に尋ねました。「何をしているのですか?」 するとこの人は興奮しながら目をキラキラ輝かせて答えました。「立派な城を建ててるんだよ。これはその大切な土台の1部分なのさ!」 私たちの日々の営みはあたかもこのレンガを1つずつ積み上げているようなものです。大切なのは、その行為そのものではなく、「どこへ向かって(何を見つめて)それを行なっているのか」ということです。あなたは3人目の人のような心を躍らせる「人生の偉大な目標(ゴール)」を持っていますか?それを与えることができるのは、あなたをこの世界に送り出された『天地創造の神』 ただ1人なのです。

(177) “ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼(息子)を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。”

聖書は『ただ1人の神』について語りますが、しばしばそれは読み手である私たちが抱くイメージによっていろいろに様変わりします。ある人は『神様』と言えばすぐに「雲の上におられる白いヒゲの柔和なおじいさんで、何でもお願いを聞いてくれる」と思い描きますが、別のある人は『神様』と聞くと反射的に「怒りっぽい大王で、手にムチを持っていて、いつも私たちを見張っていて、失敗するとバチをあてる」とイメージします。 しかし聖書が私たちに伝えようとしている『神様』はそのどちらとも違います。イエス・キリストはまさに私たちのそのような誤解を解くためにこの世界に来られ、その教えと生き様とを通して『正しい神のイメージ』を私たちに伝えようとされたのです。彼が伝えた神のイメージ、それは言うなれば『愛に病む父』です。 神は私たち人間をお造りになられました。それは私たちが神との「愛の関係」を保ちつつ、この地上に増え拡がって行くためです。ところが私たち人間は「自分の益」に心を奪われ、神を見失い、他の人々への思いやりも忘れて「自分のこと」に終始するようになってしまいました。そのような私たちの様子をご覧になり、私たちの生みの親である『天の父』は日々心を痛めておられるのです。 神の求めておられるのが、単なる『従順な子供』としての私たちではなく「私たちとの愛の関係」であるため、神はそれを「無理強いする」ことができません。ただひたすら私たちがその愛に気づいてご自身の許に帰ってくるのを「待ち続ける」しかないのです。この『神の愛』に応えるためにあなたにできることは「一生懸命『良い子』を演じること」ではなく、この天の父の愛に向かって振り向いて「今までお待たせしてごめんなさい。これからはぜひ一緒に生きて行きますから、どうぞよろしく!」と言うことなのです。

(176) “私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。”

神が人間に与えた最も『神秘的な能力』の1つは、恐らく「自由意志による選択能力」でしょう。神は人間をお造りになった時、ご自身の好みに合わせて動く「ロボットのような存在」を造ることもおできになりましたが、敢えて私たちのような『気分屋』で「その場の雰囲気に流されやすい」非常に危なっかしい存在として人間をお造りになりました。 私たちは1日の中で、様々な『思い』を持ちながら生きています。「もうそろそろ起きなきゃ…」とか、「お昼は何を食べようかな?」とか、「この仕事をどうやって定時までに終わらせられるだろう…」などなど。そのうちのほとんどの思いはたわいのないものですが、いくつかは私たちに大きな精神的プレッシャーを与えるものもあります。私たちは「自分の思いは、自分ではコントロールできない」と思いがちですが、決してそんなことはありません。実は神様はそのために私たちにこの神秘的能力である『自由意志』をお与えになったのです。私たちは日々繰り返される「自分の意志による選択」によって私たちの人生(人格)を形造って行くことが許されているのです。私たちは「その場しのぎ」の選択繰り返すことによっていわゆる『逃げの人生』を送ることもできますし、「しばらく後に得られるであろう大きな利益」を期待しつつ、敢えて忍耐を働かせて「正直で正しい選択」を繰り返していくこともできます。そしてこの『正しい選択』を助けてくれるのが、「神の言葉」である『聖書』であり、またその聖書が私たちに教えてくれる「私たちの神は善き父である」と信じる信仰なのです。 『正しい選択』は、初めのうちは多くの忍耐を必要とされるかもしれませんが、それを繰り返し行なっていくことによって習慣化し、より自然な形で正しい道を選び取っていけるようになるものです。この「繰り返し行なうことによって習慣にすることができる」というのもまた、神が人間に与えた『神秘的な能力』に違いありません。

(175) “私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。”

私たちが神に何かを祈る時、「災いを与えてください」とは祈りませんよね?普通は「私を祝福してください」と祈るはずです。そこまでは良いのですが、私たちは自分のための祝福や成功を祈りはしますが、「環境が変わること」や「新しいことに挑戦すること」は好みません。『現状維持』が好きなのです。 神は私たち人間を愛しておられます。そしていつでも私たちを祝福したいと願っておられます。神は私たち1人1人を通してご自身の『栄光』(神の優れたご性質)を表現したいと望んでおられるのです。それによって全世界が神の偉大さを知るようになるためです。ですから私たちが「大いに祝福されること」が神のみこころなのですが、それを手にする人々は多くありません。何故でしょうか?それは、神がご自身の『大きな祝福』を携えて「この祝福を受け取るために今抱えているちっぽけなものを手放す勇気のある者はいないか?」と探し回る時、その『今抱えているちっぽけなもの』を捨てて大胆に神に向かって名乗りをあげる者があまりいないからです。 聖書に「信仰がなければ神に喜ばれることはできない」と書いてあります。『信仰』とは、まだ見ていないものを深く確信して大胆に行動を起こすことです。私たちはあまりにも『目に見えるもの』に捕らわれすぎてしまって、神が与えようとしている「私たちの思いを超えた祝福」を信じられないでいるのです。ですから私たちはこう祈るべきです。「神様、あなたが私のために用意してくださっている『大いなる祝福』を受け取ることができるように、私に信仰によって新しい1歩を大胆に踏み出させてください!」

(174) “愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し…”

どんなに親しい間柄にも『意見の食い違い』はつきものです。本当の意味での『豊かな人間関係』というものは、「自分の本心を隠して相手に合わせること」ではなく、むしろ「相手を恐れずに自分の本心を正直に打ち明けること」から始まります。ここで非常に大切になるのが「『意見の不一致』や『口論』を正しく解決することのできる能力」です。 ちょっとした口論が原因で夫婦関係や親子関係、そして親しい友人関係に亀裂が入ってしまうことがよくあります。どうしてなのでしょう?それは「口論のフォーカスを『元々の原因』から『相手の人格』へと移してしまうこと」に大きな原因があります。例えばよくあるパターンは「全くアナタはいつもそうなんだから!」とか「お前のそんなところは、お前のお袋にそっくりだ!」などという捨てゼリフで口論を終わらせようとすることです。そうではなく、むしろ「夕食に遅くなる時は、ちゃんと連絡して欲しいわ。せっかく出来たてのお食事を食べさせてあげたかったのに…」、または「昨夜のパーティの時、皆の前でキミに言われたことに、ボクはとても傷ついたよ」というように、問題の焦点をはっきりさせた発言をするのです。どちらの場合も双方に『怒り』『悔しさ』『驚き』などがあることに変わりはありませんが、少なくとも言われた方は「何をどう反省し、どのように自分の行動を変えたらよいのか」が分かるので、関係を成長させるきっかけがずっとつかみやすいのです。 大切なことは「口論に勝利すること」ではありません。「不一致の原因を突き止め、それを共に克服し、お互いの関係を成長させること」です。そして相手をおもいやる『愛の心』をもって、あなたの怒りの原因を正確に伝えるならば、あなたの言葉は相手にとってずっと受け入れやすいものとなるのです。

(173) “私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。”

『信仰』というと、何だか分かるような分かんないような、あやふやなものといった印象があるかもしれませんね。1つの解りやすいたとえは、「盲導犬に信頼する盲人の感覚」でしょうか? なぜ盲人は盲導犬に信頼するのでしょう?それは盲導犬は盲人には見えないものが見えるからです。そして盲導犬は「いつ・どこで止まり、どちらへ向きを変え、どのタイミングでまた歩き出すのか」を、ハーネスを通して盲人に伝え、盲人はそれを注意深く受け取り、それに全幅の信頼を寄せて行動するのです。これが、もし「おかしいな。いつもはこの角でこんなに長く止まっていることはないのに…。これはきっと犬が何か勘違いしているか、または私に意地悪しているに違いない。こんな奴に従ってまごまごしているわけにはいかない。自分の感覚に頼って、もう行ってしまおう!」などと、盲導犬に逆らって進もうものなら、たちまち私たちの人生は危険にさらされてしまいます。 私たちが神に信頼して歩む人生もこれによく似ています。私たちには1秒先のことも解りません。そういう意味ではまさに『人生に関する盲人』のようなものです。それなのに私たちは無謀にも先を急ぎたがります。「なぜこのタイミングでこんなに長く待たなければならないのだろう?もっと早く進んでいきたいのに…」とじれったく思うこともあるでしょう。しかしそれは、今急いで先に進むと、何か危険が潜んでいるからに違いないのです。 神は時空を超えた方です。また彼は私たちを深く愛し、慈しんでおられます。誰よりも私たちの最善を望み、そして導いてくださる方なのです。ですから、盲人が盲導犬に深く信頼して、その歩みを任せているように、「神は私よりも優れた方である。また彼は私を愛し、私のために最善の道を歩まそうとしておられる」そう信じて、自分の感覚よりも『神の導き』を敢えて選んで進むこと、これが聖書の教える『信仰』なのです。

(172) “神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。”

日本の昔物語に『彦一ばなし』というものがありますが、その1つに彦一が『隠れ蓑』を着ていわゆる「透明人間」になっていたずら三昧をするくだりがあります。いくらいたずらをしても何しろ姿が見えないわけですから、被害者たちは「目に見える周囲の誰か」を疑って互いに疑心暗鬼になってしまうわけです。 実は私たちの周囲にも同様に「私たちの目には見えないところで悪さをしている存在」がいます。それが聖書の教えるところの『悪魔』です。悪魔は何も「角がはえている黒装束の魔物」というわけでも「驚異的な力をもって私たちに襲い掛かってくる怪物」でもありません。むしろもっと巧妙に「思いの中に働いて私たちをだまし、私たちの自尊心や人間関係を破壊」しながら、私たちの心が『真の神』から離れていくようにと仕組んでいるのです。 では、そのような悪魔の巧妙な働きに対抗する術があるのでしょうか?もちろん、あります!そしてそのためには下記の2つのプロセスが必要です。 1.悪魔の存在を認める。 あなたが「『悪魔』なんてそんな馬鹿げたものはいやしない!」と言っている間はあなたは見事に悪魔の術中にはまってしまっています。透明人間に対して私たちがなす術を持たないように、悪魔の存在を認めない限り、あなたは悪魔のしわざに対して勝ち目はありません。 2.「キリストを通して現された神の愛」を受け入れる。 私たちがキリストを自分の救い主として受け入れるならば、キリストは私たち1人1人の内に住んでくださいます。そして聖書は次のように断言しています。「私たちのうちにおられる方は、この世のあの物(悪魔のこと)よりも力がある!」 この世ではいわば「神様と悪魔の勢力争い」が繰り広げられています。神は悪魔よりも優っている方ですが、私たち人間を「思い通りに操ろう」とはなさいません。あなたが『神の勢力』に入れられ、悪魔に対する勝利の人生を送るためには、あなた自身の決断が必要なのです。

(171) “苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。”

『発明王エジソン』は、単に「発明の天才」であっただけではなく、「失敗に対処する天才」でもありました。ある日彼の実験室で大きな爆発音が起こり、エジソンが慌てて駆けつけると、彼の弟子たちが申し訳なさそうに言いました。「先生、これでもうこの実験に何度失敗したか分かりません。」するとエジソンはこう応えたそうです。「諸君、それらを『失敗』と呼んではいけない。『学習』と呼びなさい。何故なら諸君は既に『こうしてはダメだ』といういくつもの方法を経験によって学んだのだから。」 何かに失敗してしまった時に私たちが問うべき質問は「何でこんなことをしてしまったんだろう…」ではなく「この状況にどう対処することが最善なのだろう?」という問いです。失敗を責めることはかえって新たな失敗を生むきっかけになります。しかしその失敗を前向きに捉え、解決の糸口を捜そうとする態度は、私たちを成長へと導きます。 『成長』とは「目標地点」ではなく「そこに至るまでの道のり」のことです。神はもちろん私たちが「目標地点に達すること」を私たちと共に喜んでくださいますが、それ以上に、つまずいたり途中で転んでしまいながらも「目標地点を目指して1歩1歩進んでいく私たち」を大いに喜び、共に歩んでくださるのです。聖書が教える神は「怒りっぽくてあきれ果てる神」ではなく、「忍耐と赦し、そして励ましに満ちた神」なのです。

(170) “この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。”

ある家庭や個人に立て続けに不運が襲ったりした時、それらの人々のことを評して「あの家庭(家系)は呪われているに違いない」などと言う人たちがいます。とても悲しいことですが、実際ある精神科医のグループの研究によると、暴力癖のある人々の90%は自分が以前に誰かの暴力にさいなまれていた経験があるそうです。すなわち「誰かから受けた心の傷が、その人の性質に同様の習性を養ってしまう」ということなのでしょう。ですから親が何らかの中毒症状(アルコール・タバコ・麻薬、その他)を持っていた人たちは、他の人たちよりもずっと同様の中毒症状に陥りやすい危険性を持っていると言えます。 恐ろしいことにある種の宗教活動グループは、このような人間の弱さや傾向性を逆手に取り、「あなたの家系は呪われているからOOをしなければならない」とか、「その呪いを断ち切るためにはOOを購入しなければならない」などと人々を脅して入信させようとしたり資金稼ぎをしたりしているようです。これらは許しがたい行為です。 これらの私たちの弱さに関して、イエスは全く違った見解を示されました。彼は「それらのあなたがたの弱さは、単に神の偉大な力が現されるための機会の1つに過ぎない」とおっしゃったのです。言葉を換えれば「その問題がたとえあなたにとって大きすぎて乗り越えられないとしても、神にとってはあなたのために解決できないほど大きすぎる問題など存在しないのだ」ということです。 使徒パウロは「誰でもキリストのうちにあるなら、その人は『新しく造られた者』である」と言いました。イエスにとってあなたの『過去』がどのようであったかは問題ではありません。イエスはあなたに『全く新しい未来』を用意して、あなたが彼のところにやって来るのを待っておられるのです。