2013年3月17日 「あなたは、わたしの愛する子」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ        「あなたは、わたしの愛する子」     (17/03/2013) [ヨハネ17: 9-13] ◆神がイエスに与えた名[11節] = 『神の子』の称号 過去に他の誰もその名で呼ばれたことはない。[へブル1:5]    ・イエスは生まれる前からそれを受けていた。[ルカ1:35]  公生涯の初めにも。[ルカ3:22] ◆この称号は私たちにも受け継がれた。[ヨハネ1:12-13, ガラテヤ3:26]   It is amazing!    ・今や私たちは神の前に全く新しい存在。[Ⅱコリント5:17] ・神は私たちの『功績』の故ではなく、「私たちが誰であるか」の故に祝福する。[Ⅰヨハネ4:17] ◆イエスの願い。[11節]  ― 私たちの内に「神の子とされている」 という事実が不動のものとなること。   ・イエスはご自分が去った後も「子に対して注がれる御父の愛」が地上で証しされることを望まれた。それ故、私たちを地上に残された。[ヨハネ20:21-22] 聖霊は私たちを通してイエス(神の子)を証しするために遣わされた。 ◆『神の子として生きる』とは?    ①御霊に導かれて生きる。[ローマ8:14-16]     ・聖霊は私たちに「神の子としての自覚」を与え、「子に対して向けられている御父の愛」を知らせる。[ルカ3:22]     ・あなたを『子』とするつもりがなかったら、初めから神はご自身の霊を人に注いだりはしなかった。[ヤコブ4:5]    ②神の財産を相続する。[ローマ8:17a, Ⅰコリント2:12]     ・今や私たちは、キリストが地上で用いていた『神の富』を、同様に用いることができる。    ③キリストと共に苦難を相続する。[ローマ8:17b] ・苦難は「神に忘れられているしるし」ではなく、「子として扱われているしるし」。[へブル12:7-8] ・イエスはそれが起こる前に予告され[ヨハネ16:33]、そして私たちのために祈られた。 [14~15節]     ・苦難はいつでも、私たちが「父の許へ走るため」であり、「この世のものではない」ことを確認するため。   Outline Read more…

2013年3月10日 「あなたは、誰のもの?」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ        「あなたは、誰のもの?」     (10/03/2013) [ヨハネ17: 6-8]  ・[6節]を読むと、イエスが私たちのことを「父のもの」とか「わたしに下さった」とか言っているのが少々気に障る。   一体私たちは「誰かのもの」なのか? それとも「自分のもの」なのか? はたまた「神のもの」なのか? ◆キリストを信じる者は『神の所有とされた民』 [Ⅰペテロ2:9-10] ➝ では何故そう言えるのか?    ①神によって造られたから。[詩篇100:3]    ②キリストの代価によって買い取られたから。[Ⅰコリント6:19-20]    ③自らの意志によって、自分自身を神にささげる。[ローマ12:1-2] ・「自分をささげる」というと、損するような気がするが、実は逆。 「所有されている」=「面倒を看てもらえる」 ・神にとって「信仰者」は特別な存在。イエスは言われた。[マルコ9:41] アブラハムへの約束。[創世記12:1-3] ◆イエスは誰に所有されていたのか?[Ⅰコリント3:23]    ・キリストは地上に於いて全く貧しかった。[マタイ8:19-20] すなわち、完全に「面倒を看て下さる方」に依存して いた。(「神から与えられたもの」以外何も持っていなかった!)これこそ「キリストは神のもの」と言えるゆえん。 ◆私たちは、誰のもの? ・あなたが「どこから与えられた物を持っているか」で、あなたの所有者が決まる。悪魔は、神からあなたを奪う ため「この世の物」(お金・名誉・人など)であなたを誘惑してくる。名実共に「神の所有とされた民」となるために 「神の与えて下さるもの」だけに目を留めよう!   ・主イエスが「わたしのためにそれを手放しなさい」と言われて、即座に「はい、主よ。」と手放せるものこそ、主からのもの。     Outline of the sermon    “Who do you belong to?”     (10/03/2013) [John Read more…

2013年2月24日 「『永遠のいのち』に生かされる」

説教あらすじ        「『永遠のいのち』に生かされる」     (24/02/2013) [ヨハネ17:1-5] ◆[1,4~5節]   ・イエスは本来持っておられた『神としての栄光』を捨てて、この地上に来られた。[ピりピ2:6-8]   ・そこには、他には変えられない、重大な目的があったはず。[2節] ◆「永遠のいのち」とは? [ヨハネ3:16, 6:40, 12:50] ➝ それは単に「永遠に生きながらえること」ではない! ・人間は元々『永遠の存在』。すなわち、私たちの行く末は「永遠の死(神との断絶)」または「永遠のいのち (神との親しい交わり)」のどちらか。 そして神は何としても私たちにこの『永遠のいのち』を与えたい! ◆それは「父なる神」と「イエス・キリスト」とを知ること。    ・どのように知ること? その違いを知ること? No!この2つが「いかに1つであるか」を知ること。 ・この2つは「同じいのち」で生かされ「完全な愛と信頼」で結ばれている。その関係を妨げるものは何もない。 ◎「キリストのからだの1部」である我々も「1つのいのち(聖霊によるいのち)」で結ばれている。[ローマ8:2] それはあたかも体を流れる『血液』のよう。これがつまるといのちに関わる。[レビ17:11] ◆血の巡りを良くするために   ・私たちが力んだからといって血の巡りが良くなるわけではない。ただ「健康な生活」をしていれば良い。健康な 食物(神のことば)を食べ、良い空気(祈り)を吸い、適度な運動(キリストにある交わり)の機会を持つ。   ・もし血管が不純物(赦せない心・告白していない罪・つまずき 等)によってつまっているなら、取り除かなければならない。     Outline of the sermon    “Live in eternal life.”     (24/02/2013) [John 17:1-5] ◆[Verses 1, 4-5]   ・Jesus Read more…

2013年2月17日 「1つとされるため」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ         「1つとされるため」      (17/02/2013) [ヨハネ17章] ◆この章は丸ごと「イエスの祈り」。この祈りは大きく3つの部分に分けられる。   ①1~5節は、「自分に関する祈り」[5節]   ②6~9節は、「弟子たちのための祈り」[9節]   ③20~26節は、「やがて信じるものたちのための祈り」[20節]    *「信じる者」[8節] = 神のみことばを受け入れ、「イエスが神から遣わされた方である」と信じている。 ◆この祈りの重要ポイント = 「イエスと御父とが1つであるように、私たち(信じる者)も1つとされること」 [11,22節] ・「1つとされる」とはどういうことか。「同じようになる」ことなのか? しかし神は私たちをユニークに造られた。 ・私たちはキリストの『各器官』。[Ⅰコリント12:27] そしてそれは『御霊』によって1つとされる。[同12:12-13] ・[Ⅱコリント13:13] 「キリストの恵み」「神の愛」は分かるが、『聖霊の交わり』が分かりにくい。これは「聖霊こそ が私たちに『一致』をもたらす」ということ。 ◆自分の力ではなく…    ・「1つとされること」を含め、すべてのキリスト者としての歩みは、私たちの努力にはよらない。[ガラテヤ3:3]    ・私たちの生まれつきの性質は、神の御霊とは相容れない[ガラテヤ5:16-17]。私たちが「御霊によって互いに1つと される」には、お互いに調子を合わせようとするのではなく、キリストを見つめることが必要。[Ⅰコリント6:15-17] ★神との親しい交わりに身を浸しつつ、互いに1つとされることを求めて行こう!     Outline of the sermon    “To be one in spirit.”     (17/02/2013) [John chapter 17] ◆ Read more…

(69) それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。 私たちの暮らしている社会は、いつも私たちが「何をしているか」を問います。私たちはいつもその成長過程の中で、他の人と比べられてきました。「何故お兄ちゃんやお姉ちゃんみたいにできないの?」「どうしてオレが言った通りにやらないんだ!」などなど。私たちは何とか周囲の期待に応えようと『ガンバル』のですが、その期待を満足させられることは滅多になく、悩んだり、落ち込んだり、燃え尽きてしまったりするのです。 この混乱に唯一終止符を打つことができるのは、「私たちの行為に関わりなく、ありのままの私たちを愛して下さっている神」と出会うことです。そしてそのことは『イエス・キリストの十字架の意味』を知ることから来ます。私たちの人生の土台は、次の2つのパターンしかありません。「イエス・キリストを通した神の恵みの目線で自分を見るか」または「自分の行ないを磨いて、自分に自信をつけていくか」です。実を言うと、神の私たちに対する評価も、ある『行為』に基づいています。但しそれは「私たちが何をしたか」ではなく、「イエス・キリストが何をされたか」 なのです。イエス・キリストが十字架にかかられたのは、彼の私たちに対する「真実の献身的な愛」を示すためでした。彼はどんなに失敗ばかりで役立たずな私たちでも決して見放すことなく、あきれてしまうことなく、一緒に人生を歩んで下さるのです。 イエス・キリストと共に人生を歩き始めると、それまで心に溜めこんできた心の痛みや誤った価値観から徐々に解放され、それまで自分でも気付かなかったような新たな可能性への道が開けて行くのを体験します。キリストは、私たちが「この世の王であるサタン」から奪われてきたものを、1つ1つ取り戻させて下さるのです。私たちは本来、「出来不出来」で評価されるために生まれてきたのではなく、全能の神の尊い御手によって「ありのままを喜ばれ、愛されるため」 に生まれてきたのです。

(68) そこで、彼らは言った。「あなたはだれですか?」

今から2千年前、ヨルダン川で人々に洗礼を授けていたヨハネに対して、人々が「あなたはだれですか?」と尋ねた時、ヨハネは迷うことなく次のように答えました。「私は預言者の書の中に書かれている『荒野で叫ぶ者の声』であり、『主の道をまっすぐに整えている者』です。」 当時ヨハネには多くの弟子たちが付き従っていましたが、やがて『来たるべき方』であるイエス・キリストが現れた後、彼の弟子たちの多くはイエス・キリストの許へと移って行きました。ヨハネはガッカリしたでしょうか?いいえ!なぜなら、彼は自分が一体何のために生まれてきたかをよく知っており、その役割を忠実に果たすことができたことに満足していたからです。 あなたは、「自分が何のために生まれてきたか」を知っていますか?もちろん生まれつきそのことを知っている人はいません。しかし、人生半ばに差し掛かってもそれが何であるか皆目見当がつかないなら、それはチョッピリ悲しいことではないでしょうか? 聖書の記述を見る限りでは、使徒パウロはあまり雄弁な説教家ではなかったようです。しかし彼はそれを埋め合わせて余りある『著述家』でした。彼は神の霊に導かれて、多くの説教者を生み出すに至った多くの『著作』を残しました。彼はその生涯の中でたびたび牢獄に入れられましたが、そんな中で彼は、弁護士や美味しい食事を欲しがりはしませんでした。ただ彼が欲したのは「紙とペン」だったのです。彼はそのいのち尽きるまで、書いて書いて書き続けました。その結果、今に至るまで、人生の意味を見出し、神に献身して生きる人々を輩出し続けているのです。 あなたはどうでしょう?あなたは「何のために生まれてきたのか」をもう見出しましたか?「私は生涯かけて、この一事を成し遂げたい!」と心を燃やすものを持っていますか?次のバーナード・ショウの言葉に耳を傾けてみて下さい。 「人生とは、ロウソクの火ではない。それは燃え盛るたいまつに似ている。私はそれをほんのしばらくの間預かり、私がそれを手にしている間に、できる限りそれを赤々と燃やして、やがてそれを次の人へとバトンタッチするのだ!」

(67) 目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。

『アメリカ宇宙プログラムの父』と呼ばれる、NASA宇宙局の初代所長であるウェーンハ―・ブラウン氏は、その著述の中で次のように述べています。「もしあなたが宇宙の遠大さとそれを支える綿密な法則を知ったなら、これが偶然な爆発によって形造られたなどという寓話を信じる余地はない。そこには間違いなく、人知を超えた恐るべきデザイナーが背後におられると信じざるを得ないのである。一体どんな偶然が人間の脳や視神経を形成すると言うのか。進化論者たちは『神はいない』ということを何とかして科学的に証明しようとするが、それはあたかも『太陽を見るためにはろうそくの灯が必要だ』と言っているようなものである。彼らは『目に見えないものは信じられない』と言う。しかし一体どこの物理学者が『電子は目に見えないから、存在していない』と言うだろう。」 この世に存在しているものは皆、それを生み出した『デザイナー』がいるのです。すべての書物が存在するのは、それを出版した人がいるからです。建物が存在するのは、設計者や建築家がいたからです。芸術作品の背後には芸術家が、素晴らしい曲には作曲家がいるのです。ならば、この壮大な大宇宙と美しい大自然、そして私たち人間1人1人の存在は、それらすべてを崇高なご計画の下に生み出された、『創造主なる神』がおられることを示しているとは言えないでしょうか?