2013年4月28日 「あなたはイエスを誰だと言いますか?」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ      「あなたはイエスを誰だと言いますか?」  (28/04/2013) [ヨハネ18: 12-27]  ◆3度「イエスを知らない」と言ったペテロ。[17,25~27節]   ・更に詳しい記述。[ルカ22:60-62]   ・イエスが予告された時の場面。[ヨハネ13:36-38]   ・イエスは以前こう言われた。[マタイ10:33] イエスは何故こんな「子供の仕返し」みたいなことを言われたのか? ◆イエスと大祭司とのやり取り。[19~24節] (アンナスとカヤパの関係 [12~13,15節])   ・イエスはアンナスとの会話では多くを語っているが、大祭司カヤパの前では黙して語らず、たった1つの質問を     されたときにのみ答えている。その質問とは・・・ [マタイ26:62-64]   ・この「イエス・キリストこそが、神のもとから遣わされたひとり子・救い主だ」ということが、他の何にもまさって    重要な真理であり、信頼に値すること。(神が何よりも私たちに知ってほしいこと) ◆なぜペテロは退けられなかったのか?   ・では、ペテロは失格だった? ― No.理由は、[マタイ16:13-18](3福音書とも「ペテロの告白」として述べている)   ・裏切ったのは、ペテロだけではない。大祭司の知り合いで、身の安全が保証されていたヨハネ以外の弟子は、    皆イエスを見捨てて逃げてしまった。このペテロの挫折は、更にキリストに近づくために欠かせない経験。   ・聖書は「ヒーロー列伝」ではない。信仰の偉人たちの失敗談を包み隠さず述べている。(アブラハム、ダビデ・・・)    それは、神は「自信満々の人」ではなく、「私たちの弱さ」を通して働かれることを教えるため。[Ⅱコリント12:9]    実際キリストを求め、近く歩むほど迫害を受ける。だがそこには彼らしか味わうことのできない神の深い憐れみ・     慰めがある。パウロはその手紙で「弱さの中に現れる神の恵み」を語る直前にこう証した。[Ⅱコリント11:23-29] ◆パウロは迫害の真っ只中にいたローマのクリスチャンたちにこう言っている。[ローマ10:9] ☆「あなたはイエスを誰だと言いますか?」     Outline of the sermon         “Who do Read more…

(74) “私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。”

  人生が自分の願ったとおりに進んでいるときに「幸福な気分」を味わうことは誰にでもできます。しかし、実際人生がそのように進む瞬間はどれほどあるでしょうか?自分が置かれている状況に関わらず幸福感を味わうことができる秘訣はないものなのでしょうか? あるプロ野球の2軍のコーチがこんなことを言っていました。「若手選手の中で、やがて1軍で活躍する選手と、ずっと2軍のままで終わる選手の違いは、『技術の差』ではなく『意識の差』である。」 ある選手は、1軍から2軍に行くように言われた時、「2軍に落とされた」と言います。つまり自分が2軍行きを命じられたのは、自分のせいではなく、1軍のコーチに見る目がなかったからだ、と責任転嫁をするのです。こういう選手に限ってエラーをすると、道具のせいにしたり、グラウンドの整備が悪いからだと文句を言うのです。しかし別の選手は、「もう1度自分を鍛えなおす絶好の機会が与えられた」と、先輩やコーチの助言によく耳を傾け、熱心にトレーニングを重ねます。こういう選手ほど、やがて活躍するようになるものです。 すなわち、『幸福感』は状況に左右されるべきものではなく、自分で管理すべきものだということです。 私たちから『幸福感』を奪う3つのものがあります。 ①   欲張る心 : ないものねだりばかりしている人は、神が既に与えてくださっているものを楽しむことができません。もちろん『向上心』を持つことは良いことです。しかしゴールばかりに気を取られて、「成長の過程」を喜ぶことを忘れてしまうと、幸福感は失われてしまいます。 ②   恐れる心 : 悪魔はいつも、私たちが神様のことを忘れて「目先のものを追求すること」に熱中させ、結果として「根拠のない恐れ」(もしOOを失ってしまったらどうしよう。もし~が起こったらどうしよう。など)の中に捕らえることを狙っています。恐れは私たちから「平安」や「人生のしっかりした土台」を奪い取ります。 ③   『幸福感』を誤った場所に見出そうとすること : 「人は人生の初めの50年を『安定した生活を得るため』に使い、残りの日々を『人生の意義を見出すため』に用いる」と言われています。本当にそれが人生の正しい用い方でしょうか? 人生の本当の満足(幸福感)は、私たちをお造りになり、私たちに人生そのものを与えてくださった神との関係から来るのです。私たちはイエス・キリストを通して神との関係の中に生きるとき、恐れから解放され、現状を喜ぶ心が与えられ、正しいフォーカスを持って生きることができるようになります。

2013年4月21日「エゴー・エイミ」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ          「エゴー・エイミ」       (21/04/2013) [ヨハネ18: 1-11]  *この部分での「ヨハネの福音書ならでは」の特徴が2つある。    ①「ゲッセマネの祈り」[マルコ14:36]の描写がない。  ②「ユダによる口づけ」の場面がない。 ◆なぜ「ゲッセマネの祈り」の描写がないのか?   ・この「ゲッセマネの園(オリーブ山の一部)」はイエスのお気に入りの場所だった。[1~2節,ルカ21:37, 22:39-40]    いつもイエスの側にいたヨハネは、もしかしたらイエスのこのような祈りをひんぱんに見ていたのかもしれない。   ・[11節] も、ヨハネだけの表現。ヨハネは確かに「ゲッセマネの祈り」を知っていた。しかし、彼にとってはむしろ この「心の定まったイエスの姿」が、より印象に残ったに違いない。 ◆イエスの主体性   ・「ユダの口づけ」は、暗がりの中で人々にイエスを見分けさせるため。しかしこの場面では、むしろイエスは自ら    「あなたがたが捕らえようとしているのは、他ならぬこのわたしだ!」と名乗り出ている。[4~5節]   ・「それはわたしです(エゴー・エイミ)」という表現は、ヨハネの福音書にしばしば登場する。イエスは人々に真理を    示すのに「哲学的な教え」ではなく、ご自身を指し示した。(「わたしが『いのちのパン』『世の光』『道・真理・いのち』」など)   ・私たちは『神』をイメージする時、ほとんどの場合「自分の都合に合わせた理想」に基づいて造り上げる。しかし    神の真の姿(性質)を知るためには、イエスを見なければならない。また、聖書を読む時、つい「道徳的な教え」    「幸福の秘訣」などに注目するが、イエスは言われた。[ヨハネ5:39-40] 聖書は本来イエスに注目させるため。 ☆今日もイエスは、私たち1人1人に向かって次のようにおっしゃっている。 『エゴー・エイミ』「あなたがずっと求めてきたもの、『それはわたしです』。」       Outline of the sermon            “Ego eimi.”            (21/04/2013) Read more…

2013年4月14日 「イエスのごとく生きる」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ        「イエスのごとく生きる」     (14/04/2013) [ヨハネ17: 24-26]  *「イエスの祈り」 最終回。 深い真理が含まれている。 ◆「わたしのいる所に一緒におらせてください!」 [24節前半]   ・「イエスのおられる所」とは?= 『神の御座の右』 [へブル12:2]   ・神が下さった『新しいいのち』は、キリストと共に天にある。それ故私たちは「天からの視点」でこの世の出来事を捉えないと、神のわざを体験できない。[コロサイ3:1-4] ◆私たちは「キリストと同様」 [Ⅰヨハネ4:17] ・私たちはキリストによって1度『天に属する者(死んだ者)』とされ、「天にある新しいいのちに生きる者」として この地に『天から』遣わされている者だ、ということを知らなければならない。 ・[25節] この世は(天からの介入がない限り)天にあるものを悟り得ない。それ故神は御子を遣わされた。[ヨハネ3:13] ◆「キリストのごとく」歩むために、私たちの何が新しくされなければならないのか?     ①行動?➝ No!  ②意識?➝ △  ③人生の主導権 ➝ YES!    ・神に対する『献身』。あくまで「自主的」な従順が必要。イエスでさえもこの『従順』を学ばれた。[へブル 5:8-9] ◆ヨブの物語    ・サタンは『愛』を信じない。それ故ヨブが神に従順なのは「何か理由があるから」と主張した。 そこで神は『賭け』に出た。サタンのするに任せ、手出しをせず、じっとヨブの「自主的な信仰」を見守った。 ・今日も神は、私たちの『愛』、「◯◯にも関わらず 信じて従う心」に賭けておられる! ☆イエスのごとく、この地にあっても『世』に同化することなく、『天に属する者』として、 自らの自由意志で、この地上の「従順のレース」を走り切りましょう!     Outline of the sermon    “We Read more…

2013年4月7日 「人となられた神」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ        「人となられた神」     (07/04/2013) [ヨハネ17: 20-23]  *ここから正真正銘「私たちのための祈り」 ◆中心ポイント [21節前半]   ・「御父とイエスとが1つであるように、私たちが1つとされる。それが『お互いを見つめること』によってではなく、『神とキリストとの関係』に依存することによって始まり、また完成される」ということ。 [23節前半] ◆「御父がイエスにお与えになった栄光」 = 『神の子』としての栄光 [22節]    ・神は「私たちとイエスとを天秤にかけた」のではなく、イエスの地上での生涯を通して「私たち1人1人とどんな 関係をもって生きることを望んでおられるのか」を示され、そしてそこに至るための道を備えられた。 ・ピラトや祭司長たちは「群衆の目」ばかり気にしていたため、真理を見失った。真理を見出す道は『人々』では なく、『神のまなざし』を常に意識し、しかも「子とされている」という事実をしっかり心に刻んでおくことにある。 ◆「神がイエスを遣わされた」とは?[21節後半,23節後半]   ①神はこの世(私たち)に関心があり、関わろうとしておられる。   ②「抑圧的な形」ではなく、「誰もが(警戒せず)優しい心で受け入れられる形」で来られた。   ③神はあくまで『私たちの自由意志(信仰)』を尊重される。 ☆神はイエスを通して、ご自分についての十分な情報をくださった。それにどう応えて生きるかは、あなた次第。     Outline of the sermon    “God became human.”     (07/04/2013) [John 17: 20-23]  *Now Jesus is praying exactly for Read more…

(73) 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。

私が通っていた幼稚園は『恵み幼稚園』という名前でした。それはキリスト教会の付属幼稚園だったわけではなく、「お寺の付属幼稚園」そして園長先生はお坊さんでした。毎朝お寺で「ありがたいお話し」を聞いてから1日がスタートするのですが、その中で、私が卒園してからもずっと覚えていたお話は「お釈迦様はいつでもあなたのことをご覧になっています」というものでした。私は当時「鼻くそをほじるクセ」があったので、この「お釈迦さまがいつも自分のことを見ている」ということは、『見守られている』というより、むしろ『監視されている』という気分がして、とても辛かったのを覚えています。 ところで「恵み」とは一体何でしょう?少なくとも次の3つのことを含んでいると思います。 ①一方的に与えられる物。 ②自分の努力によってではなく、神の憐みによって与えられる物。 ③自分の力で奮闘している間は手が届かず、「もうダメだ」と思った時、いつの間にか手にしている物。 聖書には次のような言葉があります。「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」 ここで言う『へりくだる者』とは、自分の弱さ・足りなさを認め、「神なしには決して成し遂げることはできない」と考える者です。それと反対に『高ぶる者』とは、自分の力で成し遂げることによって「名誉を我がものにしたい」と望む者であり、このような人たちにとっては「神からの恵みを受け取る」ことはおろか、プライドの故それを求めることさえできないのです。 使徒ペテロは「恵みにおいて成長しなさい」と言っています。私たちが「恵みにおいて成長する」には、それを『受け取る』経験を重ねる以外にありません。そしてそれを受け取るには、神の愛と約束を信じ、日常生活の中で神が与えて下さっている物を見出し、それを感謝し、またあなたが助けを必要とする場面でそこに神が介入してくださることを期待し待ち望む姿勢が必要です。実際、「神の恵みなしに私たちが生きることのできる日」なんて、1日だってありはしません。そしてまた、私たちの必要を満たすために、神に「足りない」などということも、決してないのです。

(72) ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、

おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。 「努力はいつか報われる」という価値観を握りしめて今日までの人生を送ってこられた方は少なくないと思います。何を隠そう、私自身も『中学校卒業記念文集』の寄せ書きに、「努力はSome Day報われる」と力強く書き込みました。「人間たるもの、努力を怠ったら、もはや生きる資格はない!」などと確信していたと思います。ですから「何の苦労もなく手に入れる」とか、「タダでもらえる」などと聞くと、時には軽蔑したり、「タダほど高いものはない!」などと言って敬遠してきた気がします。 ところが、一見この「人生の美学」とも思える『努力至上主義』が、「神の恵みを受け取る」という状況になると、大きな障害になりかねない、ということも事実です。神は私たちを最高の愛で愛しておられ、ご自身の許にある祝福を私たちに注ぎたい、といつも願っておられます。そして私たちがその祝福をいただくための正しい姿勢は、「何とかして手に入れる」というのではなく、「ただ感謝して受け取る」というものなのです。 イエス・キリストは、私たちを「人生における悩み・束縛・プレッシャーなど」から解放するためにこの地上に来てくださいました。何も『クリスチャン』という名のもとに私たちを新たな「悩み・束縛・プレッシャー」の中に閉じ込めるためではありません。私たちは、すべての神の祝福は「恵みによって無代価で与えられるもの」であって、それを受け取るために必要なたった1つのものは「神はそれをくださる、という信仰」だけだということをはっきりと心に刻まなければなりません。神の目にあなたは一体どれほどに尊い、価値ある存在なのか、あなたはまだよく分かっていないのです。このお方こそ「世界で最もあてになるお方」であり、その祝福をいただくことを妨げている物こそ、今まで「これこそ1番大切で、どうしても手放せない」とこだわってきた『古い価値観(習慣)』なのです。 私たちの『古い価値観』は言います。「1人前になったら、いつまでも他の人に頼ってちゃいけないよ!」 しかし「私は古い価値観で頑張ってきて、ダメでした。もう自分に頼ることはやめて、全面的にあなたに頼って行きます!」と言う者こそ、神が最も祝福を注ぎやすい人々なのです。

(71) 私たちは真実でなくても、神は常に真実である。神にはご自身を否むことができないからである。

使徒パウロは聖書の中で、次のような人々は神の国に入ることはできない、と書いています。「性的な罪を犯す者、偶像を拝む者、酒に酔う者、強奪する者、…そして『すべて偽る者』」。 「それじゃあ、ちょっとした『でまかせ』を言うことや「見え透いたお世辞」を言うことが、不倫や強盗と一緒だって言うのかい?」と問われるかもしれません。でも、そういうことになります。神の前には「税金の支払いをごまかすこと」も、「他の神々に対して膝をかがめること」と同様にその心を痛ませるのです。 どうしてそんなことになるのでしょうか?何故神はそこまで私たちの『不真実』を嘆かれるのでしょう?それは『不真実』は、神のご性質に真っ向から反するからです。神は「ウソをつかない方」でも「ウソをつかないようにしている方」でもなく、「その性質上、ウソをつくことのできない方」なのです。神が私たちに何かを約束されるなら、それを守らずにはいられない方であり、神が何かを語られたなら、それは必ず文字通り理解されるべきです。そして彼が聖書の中で私たちに語られている数々の言葉は、すべてそのまま信じるに値するものなのです!神の辞書には『あやふや』という文字はありません。彼の言葉はいつも白黒はっきりしています。 今日、もし私たちが「本気で神と共に人生を歩もう」と言うなら、私たちはまず「常に心からの真実を神にささげて生きる」ということをしっかりと心に刻まなければなりません。

(70) 人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。

人生は『選択・判断』の連続です。たった1つの誤った判断が、私たちの人生を台無しにしてしまうこともあります。ですから、私たちが祝福に満ちた人生を送るために『正しい判断力』は欠かせません。ところがこの『正しい判断力』というものが「生まれつき身に着いている」という人は誰もいません。また「普通に生活していれば、いずれ身に着く」といったものでもありません。『勇敢さ』『高い教育』『年を取ること』がそれを得るのに役立つとも限りません。「日々正しい判断を行なっている人」と一緒に時間を過ごすことは、助けになることもあるかもしれませんが、かと言って「一緒に居さえすれば、やがて移ってくる」というわけでもありません。 「正しい判断力」を身に付けるために、私たちにできることが2つあります。 ①「1つ1つの選択には、必ずその結果がついてくる」ということを肝に銘じる。 ・自分の苦労や失敗を『環境』のせいにする人はたくさんいます。しかし実際は「環境そのもの」がその人を追い込むのではなく、「それらの環境に対する対処の仕方や態度」があなたの人生に影響を及ぼすのです。自分の周囲の環境を呪っても何も事態は好転しません。その環境の中で「あなたができる最善を見出そうとする姿勢」が、あなたの内に『正しい判断力』を育てるのです。 ②「他に方法はない」と決めつける考え方を捨てる。 ・私たちはしばしば「これは必ず正しくて、これは必ず間違っている」という考え方に偏りがちです。「この方法は以前やってみてダメだった。だからもう1度挑戦する価値はない!」 本当でしょうか?もしかしてもう1度チャレンジしてみたら、うまくいくことはあり得ないでしょうか?みすみす可能性を狭めてしまうのではなく、『ダメ元』で、以前失敗した方法であっても、多少愚かに見える方法であっても、はたまた1度も試みたことのない道であっても、わずかな可能性を探ってみてはどうでしょう?「必ず何か他にも方法があるはずだ」という姿勢を育てること、これが私たちに「更に豊かな判断材料」を与えてくれます。

2013年3月24日 「『この世』とのバトル」

メッセージをダウンロードして聴く マイクさんの証しをダウンロードして聴く 説教あらすじ        「『この世』とのバトル」     (24/03/2013) [ヨハネ17: 14-19] ◆この世のものではない。[14節]   ・私たちは『神の子ども』として、イエス同様「この世のものとは相容れない」。しかしサタンはあらゆる手を尽くして我々を「この世と妥協させよう」とする。それ故イエスは「彼らが悪い者から守られるように」と祈られた。 [15節]   ・「神は良い方だから大目にみてくれる」のではない!神が『大目にみる方』だったら、十字架は必要なかった。「神は良い方」だから、いつでも私たちが『神の最善』の中に招き入れられることを期待しておられる。 ◆『真理のみことば』によって、聖め別たれる。[17節]    ・イエスが私たちをこの世から取り出すためのツール = 「神のことば」(真理) ・イエスこそ「生ける神のことば」(この世との妥協がない) ― 神のことば無しの信仰は、世と混合する。 ・私たちは時々「自分のアイディアをバックアップするための聖書のことば」を捜す。      ➝ 大切なのは「私たちの願いの成就」ではなく、「神の最高・最善のご計画の成就」。 ◎そのためにどうしても必要なこと = 『神に対する絶対的(不動の)信頼』と『そのみことばに対する従順』。 ◆陥りやすい落とし穴   ①聖書は『急ぐ』ことは教えていない     ・それが『神の』計画であるなら、あなたの生涯の終わりまでに成就する必要はない。[へブル11:13-16]   ②『状況』から神のしるしを見出そうとするな![マタイ16:4]     ・私たちが頼りとするのは「不動の神のことば」。 状況なら、サタンでも変えられる。 ☆みことばに徹底的に従うことによって、『この世とのバトル』に打ち勝って行きましょう!     Outline of the sermon    “Our battle against the Read more…