(525) “御手のわざは真実と公正。そのすべての戒めは確かである。”

 世の中において(特に日本人)は「断言すること」を避ける傾向がありますよね。私たちの会話の中に頻繁に登場する言葉に「たぶん」「恐らく」「まあ、きっと」「もしかしたら」「望むらくは…」「だといいけどねぇ」などなど、あやふやに言葉を濁すことがよくあります。  聖書のことば、またイエス・キリストのことばは、そうではありません。イエスが好んで用いた表現で「まことにあなたがたに告げます」で始まるフレーズがありますが、これは「これから言うことはとても大切な『不動の真理』だから、耳の穴をかっぽじいてよぉく聞けよ」というような意味です。そしてそのフレーズに続けて「わたしの言葉を聞いて信じる者は永遠のいのちを持ちます」「人は新しく生まれなければ神の国を見ることはできません」というように言われたのです。そしてそれらの言葉通り、イエスの生涯は確信と力に満ちていました。そして彼の確かな言葉に信頼して生きるなら、私たちも同様な「あやふやではない生き方」ができるようになるのです。  よく知られている『詩篇23篇』という箇所で、作者であるダビデ王は「まことに私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みが私を追って来る」と書きました。ダビデは確かに立派な王ではありましたが、その生涯は決して完ぺきではなく、言ってみれば現代の週刊誌のゴシップ記事のトップを飾るようなヘマをいくつもやらかしたのです。しかしそんなダビデを神は決して見捨てるようなことをなさいませんでした。同じように、現代でも神に信頼する者には、その人が立派であるか否かに関わらず『神のいつくしみと恵み』がいつも付いてくる、と聖書は約束しているのです。

2023年3月19日 「みことばと信仰」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ     「みことば と 信仰」     (19/03/2023) [へブル人への手紙 4章1~13節] ◆神の安息 (1~3節前半)   ・ここでは聖書の歴史に基づいて、3つの側面から「神の与える安息」について述べられている。     ①天地創造における7日目の『安息』。これが安息日の起源になっている。     ②出エジプトの民が「約束の地カナン」に辿り着くことによって得た『安息』。     ③福音を信じる者が「神との平和」の中に招き入れられたことによる、永遠の『安息』。   ・この手紙の著者は、この3つの『安息』はどれも「神のことばを堅く信じること」に深く関連があると言っている。 ◆みことばへの応答 (11~13節)   ・『神のことば』はいつでも「あやふや」ではなく「断言」。それ故聞く者たちは「決断・選択」を迫られる。そこに現れるのは私たちの「信仰による従順」、または「不信仰による不従順」。別の言い方で言うなら、「『神のことば』には力があり、人がそれを信じようと信じまいと『神が語られたこと』は成就する。しかし『神の祝福の約束』は、それを『信じている人』にしか成就しない」ということ。だからこそ著者は重ねて私たちを招く。[7節]   ・神は全てをご存知で、しかも善意に満ちておられる。この方の語りかけに応じないことは愚かこの上ない! ✰今週のチャレンジ: 「神のことばに従う」という確固たる決意を持っていますか? ◎更に深い学びのために  ①今日の箇所には、どのような「神の3つの安息」について述べられていますか?確認してみましょう。  ②これら3つの『神の安息』の共通点は何ですか? またそれはあなたの人生にも成就していますか?  ③「みことばに従ったゆえの祝福」「御声に対して頑なになってしまった失敗談」などがあれば分かち合いましょう。 Outline of the sermon    “Word of God and our faith.”   (19/03/2023) [Hebrews 4:1~13] ◆God’s rest. (Verses Read more…

(524) “主は私を緑の牧場に伏させ、憩いの水際に伴われます。”

 人間生きていれば、「やるべきことをちゃんとやっているのに、どうしてこんな虚しさに襲われるのだろう?」というような日々を味わうことがあります。そんな時ついつい自分自身を責めたり、周りの誰かのせいにしたりしたくなりますが、そんなことをしても何の解決にもなりません。そのようなやるせなさに襲われることがあるのは、単に「この世界が完ぺきではない」からです。善意の人もいれば、そうでない人たちもいます。もっと言うなら、人は基本的に『自己中心的』であり、「自分よりも他の人の幸福のために一生懸命になれる人」は、ほとんどいないからです。  しかし、希望があります。それは「全地・全宇宙の創造者である神」が、今日も私たちに対して心を配ってくださるからです。聖書の中で最も有名なくだりの1つに『詩篇23篇』というダビデ王によって詠まれた詩がありますが、そこでこの『創造主なる神』について2つのことが書いてあります。  ①「主は私を緑の牧場に伏させる」   ・『緑色』は「新鮮さ・フレッシュさ」を象徴しています。私たちは朝ごと・日ごとに神の前に出て、祈りや聖書のことばを通して、自分の心を「リフレッシュ」していただく必要があるのです。私たちの造り主である方は、私たち自身も気付いていない私たちの内面的な必要を満たすことのできる方です。  ②「主は私を憩いの水際に伴われる」   ・『憩いの水際』は私たちの心を「静けさと深い思慮」へと導きます。この世の生活(特に日本において)はとかく忙しすぎます。スピードと生産性が重視され、私たちの心はしばしばそれらに追い付いて行けません。そしてそれらに振り回されている間は、私たちの心は神様から遠く離れてしまっているのです。私たちは『静まった心』でいる時にこそ神と出会い、また真の自分自身を取り戻すことができるです。

2023年3月12日 「『信仰による従順』への招き」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ     「『信仰による従順』への招き」     (12/03/2023) [へブル人への手紙 3章7~19節] ◆「出エジプトの民」の不信仰   ・再び旧約聖書(詩篇)の引用から始まっている。この内容は『出エジプト』の出来事に基づいている。神の数々の奇跡によってエジプトから脱出させられた「イスラエルの民」であったが、『約束の地』へ行く道中でも何度も不信仰に陥り、神に対して不満を漏らした。極めつけは『約束の地』を目前にし、先住民が大きくて強そうなのを知って「なぜ神は私たちをこの荒野で死なせようとするのか!」と神を侮り、神の怒りを買った。[19節] ◆神が求めておられるもの (12~14節)   ・神は昔も今も「無理難題」を私たちに要求しているわけではない。ただ単純に『神の力・愛・誠実さ』に信頼することを願っておられる。「この世の目に見えるもの」に信頼させようとする悪魔の誘惑を振り払って、互いに励まし合い、共に神の許にとどまることを求めておられるのだ。   ・いつでも思い起こすべきなのは、十字架上で「はっきりと現された『神の愛』(ヨハネ3:16)」。それは「私たちが滅びることなく『永遠のいのち(神との関係)』を持つための『驚くべき代償』。『神との関係』は「結婚関係」に似ている。疑いを乗り越えさせるのは『コミットメント(献身)』。神からの「信仰と従順」への招きに誠実に応答して行こう! ✰今週のチャレンジ: あなたは神への信仰に『献身』していますか? ◎更に深い学びのために  ①「出エジプト」の折、また「約束の地への道中」で、神がなさった『力あるわざ』の数々を思い起こしてみましょう。  ②これほどの「奇跡」と「神のご介入」を体験したイスラエルの民が、どうして不信仰に陥ってしまったのでしょう?  ③「イスラエルの民」を反面教師として、神からの『信仰の従順への招き』に、どう応答して行けば良いでしょう? Outline of the sermon  “Commitment to faith in God.” (12/03/2023) [Hebrews 3:7~19] ◆Unbelief of Israelites.   ・This quote from Psalm is based on the story Read more…

(523) “短気な者は愚かなことをする。”

 ちょっとこんな朝を想像してみてください。どういうわけか目覚ましに気が付かず朝寝坊をして会社に遅れそうです。こういう時に限って車のエンジンがかかりません。やっと仕事場に到着して席に着くと、今度はパソコンが起動しません。イライラしながらコーヒーを淹れに行くと、何と午前中いっぱい断水とのこと。ついにあなたは我慢しきれなくなって叫びます。「一体アタシが何をしたって言うの!?」  このような出来事や状況は確かに起こり得るし、また私たちをイラつかせます。しかしご存知でしょうか?これらにイラつくかどうかは、私たちの『選択』によって決めることができるのです。私たちは必ずしも「状況や出来事」に支配される必要はありません。もちろん中には事前に防ぐことができるものもあるでしょうが、多くの場合私たちはその日その日の出来事を選ぶことはできません。しかし「起こったことに対する態度」は選ぶことができるのです。そのためには、日々朝ごとに「新しい1日を神様の全能の御手の中にお任せする」ということがとても役に立ちます。  ある牧師がこんな手記を残しています。「地上での人生は実に短い。その短い生涯を『過去に起こった出来事(それが20年前であろうが、20分前であろうが…)』によって台無しにされてしまうのは、何ともったいないことだろう。だから私は1つ1つの出来事を『楽しむ』ことにした。何か失敗を犯すこともあるだろうし、思い通りに事が進まないこともあるだろう。がっかりさせられることもあるだろうが、それによって『私の喜び』を盗まれたりはしない。私は朝ごとに宣言する。『父なる神よ、今日もあなたが造られた素晴らしい日です。あなたが私の心を守ってくださって、私が1つ1つの事に良い決断を下すことができるようにしてくださることを感謝します。昨日は成すべきことで成し遂げられなかったことがあったかもしれませんが、その「昨日」はもう過ぎ去りました。今日も新たな気持ちであなたと共に歩みます!』」  車のバックミラーは普通フロントガラスよりもずっと小さいですよね?これは「後ろを見ることは、前を見ることほどは重要ではないこと」を象徴していないでしょうか?だからたとえ「望んでいないこと」が起こっても、それであなたの大切な『喜び』を失われることなく、前へと進んで行きましょう!

2023年3月5日 「『神の家』として生きる」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ   「『神の家』として生きる」   (05/03/2023) [へブル人への手紙 3章1~6節] ◆モーセとイエスの違い (2~6節前半)   ・モーセとイエスはどちらも「預言者であり、祭司(神と人との間に立つ仲介者)でもあった」という共通点を持っているが、そのレベルは大きく違った。モーセが「イスラエルの民」という『神の家』の担い手だったのに対し、イエスは「天にも地にも及んでいる神の支配(神の国)」としての『神の家』を治める王であり主である方。   ・更にモーセ自身は『神の家』の1員でもあり、民の中の1人として「文字で書かれた律法」によって人々を導いたが、イエスは『神の家』の上に立つ存在として「御霊によって心に書かれた律法」によって人々を導かれる。 ◆私たちは何者か? (1,6節)   ・この手紙の著者は私たちを「天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち」と呼んだ。私たちはキリストの十字架の血潮によって聖められた『罪なき聖なる者』であり、神を『父』としてイエスを『長子』とする『兄弟たち』である。そして何よりも、私たち自身が「神の御霊を内に宿している『神の家』」なのだ。   ・私たちは『神の家』とされた者としてふさわしく、「目に見える状況に振り回される」のではなく、「それら全てを支配しておられる『王の王である主イエス』の許で生きる者」として、確信と誇りに満ちて生きて行こう! ✰今週のチャレンジ: あなたは何に信頼し、左右されて生きていますか? ◎更に深い学びのために  ①モーセとイエスの共通点、また相違点はどんな点ですか?  ②今日の箇所に出てくる『神の家』とは、どのようなものを指していると思われますか?  ③あなたの自己像と、聖書が語る『あなた』とに、ギャップがありますか? それをどう一致させたら良いでしょう? Outline of the sermon  “Live as God’s house on the earth.” (05/03/2023) [Hebrews 3:1~6] ◆Differences between Jesus and Moses. (Verses 2~6a) Read more…

(522) “主に信頼し、善を行え。地に住み、誠実を養え。”

 聖書には、神がいかに『誠実な』存在であるかを多く語っています。そして私たちが神様のその『誠実さ』に倣うことが期待されていることも。では、『誠実さ』とは一体どんなものなのでしょう?  『誠実さ』とは、言ってみれば「どんな時でも100%の最善を尽くす態度」です。カナダのあるコミュニケーションに関する統計によると、仮に「99.9%の誠実さ」で物事が勧められた場合、年末の「所得税の戻り金」の計算は10万人分以上が誤って計算され、1時間の間に2万件以上の小切手が誤った口座から引き落とされ、毎日12人の新生児が誤った親に引き渡され、5機以上の飛行機が毎日着陸に失敗し、1時間のうちに2万通の手紙が誤った宛て先に送られ、100万件のクレジットカードの支払いが誤った所有者に請求され、年に2万件以上の誤った薬品が処方されるそうです。  これらは数年前の統計なので、恐らく今日ではこれ以上の頻度になることでしょう。つまりこれらから分かることは、100%の誠実さだけが「真の誠実さ」だということです。そして神はこの100%の誠実さをもって日々私たちに関わってくださっているのです。このお方の『誠実さ』に倣って、今日1日も心を尽くして神と人とに仕えましょう!

2023年2月26日 「完全な救いの創始者・イエス」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ   「完全な救いの創始者・イエス」   (26/02/2023) [へブル人への手紙 2章10~18節] ◆救いの完成者・イエス (10~15節)   ・[10~12節] 神の意図は、御子を『救いの完成者』とすること。これには、①人々の救い と ②イエスの栄光の両方が含まれる。そのために神は、イエスを「人間と同じような存在(人々の中の長子)」とされた。   ・[14~15節] イエスは「道であり、真理であり、いのち」、すなわち救いに至る『道』であり、その道をどうやって辿るかを教える『道しるべ(真理)』であり、その道を共に歩む力を与えてくださる『同伴者(いのち)』でもある。   ・「悪魔をご自分の死によって『滅ぼした』」とは、私たちの罪のための『身代わりの死』によって、私たちを『罪の奴隷』として縛っていた悪魔の力が「無力化された」ということ。 ◆完全な大祭司・イエス (17~18節)   ・『祭司』とは、「罪の故に神に近づくことを妨げられている人々のための仲介者」。イエスは「罪ある不完全な祭司」ではなく、「神に対しても人々に対しても『完全で忠実な大祭司』となられた。彼は「すべての点で兄弟たちと同じように」なられた故に、私たちの『弱さ』に同情することができ、また「最後まで御父に忠実に歩まれた」ゆえに、神の全能の力によってよみがえらされ、『神の右の座に着く』という栄光が与えられた。 ✰今週のチャレンジ: あなたはこの「救いの素晴らしさ」を存分に味わっていますか? ◎更に深い学びのために  ①イエスはどのような点で『救いの完成者である』と言えるのでしょうか?  ②イエスはどのような点で『完全な大祭司である』と言えるのでしょうか?  ③今日の箇所を通して、神が御子を「人として地上に遣わされた」ことに、どんな意味(理由)を見出せますか? Outline of the sermon    “Jesus – perfect founder of Salvation.”   (26/02/2023) [Hebrews 2: 10~18] ◆Jesus – perfector of Read more…

(521) “神の恵みによって、私は今の私になりました。”

 「自分のことをどう思っているか」(一般に『セルフイメージ』と呼ばれますが…)は、私たちの人生に大きな影響を与えます。イエス・キリストを通して「神との関係に生きる人生」へと招き入れられるまでは、私たちのセルフイメージはそれまでに私たちの周囲を取り巻いていた『権威ある存在』、例えば「両親」「先生」「職場の上司」「信頼している先輩や友だち」から聞かされた意見や評価に大きな影響を受けています。それらの中には「正しいもの」や「私たちを支えてくれる言葉」もありますが、残念ながら「私たちの心に痛みや深い爪痕を残しているもの」も多く含まれています。そしてそれらはしばしば『イエス・キリストにある救い』を受け取った後でさえ、私たちの足を引っ張ることがあります。  では、どうすれば良いのでしょう?私たちは『自分に対する神の評価』を日々心に受け取ることによって、それらから解放されることができます。具体的には「祈りと聖書のことば」を通して心を神へと向けるのです。まず次のように祈りましょう。  「神様、私は『この世のもの』ではなく、あなたによって造られ、愛されている『神のもの(神の子供)』であることを、今日も宣言します。私は『この世の声』ではなく、『あなたからの声』にこそ耳を傾けます!」  そのように祈った後で、日々聖書の言葉を通して、①神があなたの存在を喜んでおられること ②神があなたの人生に素晴らしい計画を持っておられること を確認しましょう。  イエス・キリストがこの世に来られた後、世界に最大のインパクトを与えた人物の1人に『使徒パウロ』がいます。彼は初めは「キリスト教徒を迫害し、敵対する者」であり、信者を殺すことさえしていました。ところがイエス・キリストを通して神との関係に歩むようになって以来、彼は全く別人のように変えられ、神と人とを愛し、神の救いを世界中に宣べ伝える者とされたのです。冒頭に挙げた聖書のことばは、晩年に彼が告白したことばです。神はあなたの人生をも同じように180度造り変えることができるのです。

2023年2月19日 「神の前に分をわきまえる」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ   「神の前に分をわきまえる」   (19/02/2023) [へブル人への手紙 2章1~9節] ◆『救い』の性質 (1~4節)   ・『聞く』という行為は、人生において重要な位置を占める。ましてや「神が語られる」時、そのことばにどれほど真剣に耳を傾けるべきであろうか?神との関係が「馴れ合い」になってしまってはいないか?   ・「旧約聖書において神が御使いや預言者たちを通して語られた律法や教え」が「従うべきものとして命じられ   た」という性質を持つのに対し、「神が御子を通して世に示された『救いのことば』」は『招き』として私たちの前に提示されている。但しそれは決して「ないがしろにしてもよい」といった性質のものではない! ◆御子イエスによる統治 (4~9節)   ・「来たるべき世」とは、御子イエスが「神との関係を遮断していた私たちの罪」を身代わりに負われたことによって回復された『新しい世界秩序』、すなわち「イエスを王とする世界」のこと。詩篇8章の引用はピリピ2章のくだりを思い起こさせる。[ピリピ2:6-9] 御子がこれほどまで己れを低くされたので、御父は彼を高く上げられた。   ・御子がここまで御父に従ったのは、御父の「人々に対する心」を知っていたから。私たちも己れの無知を認め、『御父の心』を求め、へりくだって人々に仕えるなら、イエス同様「ちょうど良い時に」高くされる。[Ⅰペテロ5:6] ✰今週のチャレンジ: あなたは「神」を本当に自分の『神』として生きていますか? ◎更に深い学びのために  ①『御父との親しい関係』が、「御父の心の故に支払われた信じがたい犠牲」の上に成り立っていることを思い巡らしましょう。  ②御子を通して私たちに向けられている『招き』に対するふさわしい応答とは、どのようなものですか?  ③御子はどのように「高く上げられた」のですか? また私たちはどのようにして「高く上げられる」のでしょう? Outline of the sermon    “Know how undeserved we are.”   (19/02/2023) [Hebrews 2: 1~9] ◆How big “salvation” we have?! (Verses1~4)   ・“Listening” Read more…