2022年2月27日 「『思い違い』に捕まるな!」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ      「『思い違い』に捕まるな!」     (27/02/2022) [マルコ 12:18~27] ◆サドカイ人たちの間違い [18節]   ・「サドカイ人」は上流階級に属し、代々祭司長を輩出しており、パリサイ人とヘロデ党の両方と対立していた。『モーセ5書』のみを信じ、霊的な世界よりもこの世的な事柄を重視し、「御使いも復活もない」と言っていた。   ・彼らのイエスに対する質問は、そんな彼らの「自分勝手な聖書理解」に基づいたもので、『真理』から大きく逸脱していた。同様なことは私たち自身にも起こり得る。「自分の思い込みや先入観」のレンズを通して聖書を読む   なら『神の真理』から大きくズレてしまう恐れがある。『自分の思い込み』を「聖書そのもの」や『神ご自身』よりも優先してしまうことほど「神を冒瀆していること」はない!◆「よみがえり」に関する真理 [24~27節]   ・「よみがえりのからだ」は『天の御使い』のようであって、今持っているものとは違う。[Ⅰコリント15:42-44, 50]   ・ここでイエスが『モーセの書』を引用したのは、サドカイ人のため。数千年前の存在であるアブラハムやモーセ、そして最近キリストにあって眠った私たちの家族たちも、神の前には『生きた者』である。[ルカ20:38] 私たちは勝手な思い込みによって『神の真理』を歪め、「いのちへの道」を閉ざしてしまわないように気を付けよう! ✰今日のみことば: テモテへの手紙 第1.1章15節 ◎更に深い学びのために  ①サドカイ人たちは、どうしてこのような『思い違い』をしてしまっていたのでしょう?  ②私たちが陥ってしまいやすい「神への冒瀆」とは、どのようなものですか? それは何故起こるのでしょう?  ③何故「復活は、ある」と言えるのでしょう? 「よみがえりの事実」は私たちの生き方にどんな影響がありますか? Outline of the sermon        “Do not be wrong!”        (27/02/2022) [Mark 12:18~27] ◆Why were they wrong? [Verse 18] Read more…

(479) “からだが霊を欠いては死んでいるのと同じように、信仰も行いを欠いては死んでいるのです。”

 聖書は、私たち人間は本来『3重構造』(肉体・精神・霊)だと教えており、またこの最も内側にある『霊』の部分が生まれつき死んでしまっていると言います。この『霊』こそが神を認識する部分であり、人間が「神に造られた存在」として本来の『いのち』にあふれて生きるようになる源です。  同じように、私たちの神に対する『信仰』にも、「生きた信仰」と「死んでしまっている信仰」があるのだと、聖書は教えています。それでは、「死んでしまっている信仰」とは、一体どのようなものなのでしょう?  『信仰』とは、単に知識として「神を知っている」、また「神の存在を信じている」といったものではありません。『信仰』とは、私たち人間と、生きとし生けるものすべての根源であられる『神』とを結ぶ管のようなものです。この「いのちの源であられる神」としっかりつながっているなら、おのずと『神のいのち』が私たちの内に注ぎ込まれ、満タンに充電された家電製品のように、その託された役割を存分に果たすことができます。「行いによって神につながろうとする」のではなく、「神とつながっているからこそ、行いとして現れる」のです。  ところが、この「神との間を結ぶ管」が不純物によってつまってしまっていることがあります。その不純物とは、私たちの『高慢な心』だったり、自分勝手な『誤った思い込み』だったりします。口では「神を信じている」と言いながら、自分の人生を自分勝手な考えに基づいて築き上げようとしたり、あたかも神を「困った時だけ頼りにする『便利屋』」のように扱って、事が自分の思い通りに進まないとすべて神に責任転嫁しようとするような態度がそれです。  『生きた信仰』とは、人生の主権を神に委ね、今日も生きて働かれる神の語りかけにワクワクしながら耳を傾け、分かったことを喜んで実践する、「神との生きた関係」の中で歩むことなのです。

2022年3月6日 「最も大切な戒め」

*画像が初めの方で少しだけスキップしてしまっている不手際をお許しください。 礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ        「最も大切な戒め」       (06/03/2022) [マルコ 12:28~34] ◆最も大切な戒め (長くない箇所だし、重要な内容なので、1節ずつ詳しく見てみよう)   [28節]・この律法学者は、これまでのイエスの会話の対象者たちと、少し態度が違う。   [29~30節]・イエスは少しの迷いもなく答えた。「具体的な行いに関する戒め」ではなく、『神との愛の関係』を強調した。「~を尽くして」ということは、必然的に「他の神々に対する思い(偶像礼拝)」の入る余地はない。   [31節]・「神を真に愛すること」を知れば、おのずと「神がどれほどに自分自身や他の人々を大切に思っているか」が分かり、それらの誰をも軽んじることはできなくなる。これらの戒めは2つで1つ![Ⅰヨハネ4:19-21] ◆『神の国』に入るには? [32~34節]   ・この律法学者は優れた反応を示した。ここでの「ささげ物やいけにえ」とは、いわば「信仰者にふさわしい様々な『良い行い』」を指す。「神の国から遠くない」は、「既に神の国にいる」とは違う。では、何が足りないのか?   ・イエスは自分と一緒に十字架にかかっていた強盗が悔い改めた時、「あなたはわたしと共にパラダイスにいる」とおっしゃった。カギは『イエスの十字架』による贖いのみわざ。そしてもう1つは、「頭だけの知識・情報」だけではなくて、「信仰をもって1歩踏み出す」こと。「神について知る」だけでは、不十分。 ✰今日のみことば: マルコの福音書 12章33節 ◎更に深い学びのために  ①イエスは律法学者の質問にどう答えましたか? またその答えにはどういう意味が込められているでしょう?  ②イエスの答えに対する律法学者の反応は、どんな点が優れていて、どんな点が足りないでしょうか?  ③あなたにとって、「すべてを尽くして神を愛する」とは、どのようなことですか? 互いに分かち合いましょう。 Outline of the sermon     “The most important commandment.”     (06/03/2022) [Mark 12:28~34] ◆The most important commandment.   ・Jesus replied Read more…

(478) “律法学者の1人が来て、イエスに尋ねた。「どれが第1の戒めですか?」”

 前回は「聖書をひと言でいうと…」というお話をしましたが、今回はイエス・キリストがおっしゃった「聖書で最も大切な戒め」について書きますね。  この聖書の箇所が言う『律法学者』とは、イエス・キリストの時代のいわば「聖書の専門家・教師」のような存在です。ですからこの質問は「イエスに教えを乞うた」というよりも、「イエスを試そうとした」という方が妥当でしょう。しかしこの後イエスの答えを聞いた彼は、その明瞭・適切な答えに感動して沈黙した、と書かれています。では、イエスは一体どのように答えたのでしょうか?  イエスはこう答えました。「まず第1に『心から神を愛すること』だ。唯一の創造主なる神をおのれの神と認め、このお方だけを礼拝し、そのみこころを求めて従うこと。これが何よりも大切だ。そしてそれと同じくらい大切なのが『自分を愛するがごとくに周囲の人々を愛すること』だ」と。  ここに『3つの愛』が述べられています。「神への愛」「自分に対する愛」「隣人愛」です。この3つに優劣があるわけではなく、『序列』があるんです。すなわち、「まことの『創造主なる神』を知り、この方との愛の関係の中に生きることなくして、『自分自身の真の存在価値』を知ることはなく、真の意味で自分を大切にして生きることもできない。また、自分が神との関係の中で、『神からの深い愛』を体験するまでは、自分自身を注ぎ出して他の人々のことを親身に顧みることができない」ということなのです。  「キリスト教の精神は『愛』である」と言われるゆえんは、ここにあります。それは決して「自分の身を削って、無理して他の誰かのために何かをしてあげる」ということではなく、「神との愛の関係から生まれて来る、心から泉のように湧き上がってくる『神の愛』を、人々の間で注ぎ出しながら生きる」ということなのです。神が私たちを通して他の誰かにご自身の愛を表現されるのを体験する時、私たちは初めて「自分が生まれて来た本当の意味」を発見することができるのです。

(477) “幸いなことよ。主のさとしを守り、心を尽くして主を求める人々。”

 『聖書』は何千ページもある分厚い本ですが、ひと言でいうと一体どんなことが書いてあるのでしょう?今日はこの難題に限られた紙面で答えてみたいと思います。大体次の3つの内容が書かれていると言えると思います。  ①「神とはどんな方か」ということが書かれている。   ・聖書を読むことを通して、私たちはこの全宇宙を創造された『神』という方が「どのような性質で、どんな願いを持ち、どのようなことを大切にしておられるか」を知ることができます。私たちの地上の親や家族は、時には私たちに対して誤った期待を持ったり、不適切な取り扱いをしたりしますが、この『天の父である神』は「愛と知恵と力」に満ち、私たちの周囲の人々とは全く異なったレベルで私たちをご覧になり、私たちの思いを超えた喜びと満足で私たちの人生を満たすことのできる方です。  ②「私たちとはどのような存在か」が書かれている。   ・聖書を読むことによって、私たちは自分がこの『創造主なる神』にとってどれほどにかけがえのない存在なのか、を知ることができます。確かに聖書には人間というものの「弱さや抱えている問題」も書かれていますが、それ以上に「本来『人』とはどれほど尊厳に満ちた存在で、どのような可能性を秘めているのか」が描かれており、そのポテンシャルを花開かせるための秘訣もそこには述べられているのです。  ③「人と人との関わり」に関して書かれている。   ・聖書を読むうちに分かってくることは、神が私たちを「関係の中で生きる存在」と定めておられることです。あなたは多くの人々にとって「素晴らしい助けや慰め」を与える存在であり、また周囲の人々はあなたに「良き励まし、知恵、そして成長」を与えてくれます。神はある人を通して他の人を祝福しようと、日々機会を狙っておられるのです。  『聖書』は、神が人類にお与えになった、比類のない「悔いのない人生を送るためのインストラクション・ブック」です。やがて全ての人がこの『唯一まことの神』の前に立つ日がやってきます。その時に神に「あなたはわたしがあなたのために著した書物を読んだことがあるか?」と問われたら、胸を張って「はい、あります!」と答えられる者でいたいと思いませんか?

2022年2月20日 「真理に基づいて生きる」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ        「真理に基づいて生きる」       (20/02/2022) [マルコ 12:13~17] ◆真理を求めない心 [13~14節]   ・「彼ら」は引き続きユダヤ人リーダーたち。「パリサイ人とヘロデ党」はローマとの関係において対立していた。よってイエスがどちらを答えても反論される状況。これまでもそうだが、彼らは「真理を求めよう」とはしないで、ただ「イエスを陥れよう」としているだけ。「巧妙な犯罪者たち」にも言えることだが、それだけの熱心さを「正しいこと(まごころから神を求めること)」に向けるなら、どれほど実りある人生を歩めることだろう…   ・悪魔は私たちの『思い』に働きかけ、私たちを「自分勝手な知識や悟りで神を推し測る」ように誘う。悪魔の狙いはただ1つ。私たちの「神に対する信頼」を揺るがし、真理を悟れないようにすること。 ◆真理を求めて生きる   ・私たちがもし「自分の思い」よりも「神の真理」を優先させるなら、真の『自由』を体験できる。[ヨハネ8:31-32]   ・『神の真理』の代表的なものとは…  ①私たちは神のもの(神の栄光のために造られた)。[詩篇100:3,イザヤ43:7]    ②神は良い方である。[ローマ5:8,イザヤ55:7b]  ③神は私たちよりも遥かに偉大である。[イザヤ55:8-9]   ・『神の真理』は、「考えて」も見つからない。聖霊が悟らせてくれる「神のことば」の導きに従って生きよう! ✰今日のみことば: 箴言 3章5~6節 ◎更に深い学びのために  ①なぜ「生まれつきの人間」は、『神の真理』を求めようとしないのでしょう?  ②『神の真理』に従って生きる時、人はどうして『真の自由』を体験できるのだと思いますか?  ③あなたが今までに発見した『神の真理』には、どのようなものがありますか? 互いに分かち合いましょう。 Outline of the sermon      “Build your life on ‘the truth’.”      (20/02/2022) [Mark 12:13~17] ◆Those who don’t seek “the Read more…

(476) “行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。”

 私がまだ『クリスチャン』になる前、「クリスチャンって、どんな人?」と訊かれたら、きっと「良いことをする人たち」と答えたと思います。そんなイメージがあったんですよね。それとともに「きっと『良いこと』をしないと『救い』を受けられないのだろう」とも思っていました。それが誤りであることは、自分がクリスチャンになってからはっきりと分かったのですが…  クリスチャン(イエス・キリストを『救い主』と信じることによって、神からの「永遠のいのち」を受け取った人々)が『良い人たち』だと感じられるのは、彼らが「『救われるため』に一生懸命に善行を積んでいるから」ではなくて、「『救われるため』に何の貢献もしていないにも関わらず、ただイエス・キリストを通して現された一方的な神のあわれみを信じ受け取ることによって『救われた』ことへの喜びと感謝」が彼らの人生から溢れ出ているからなのです。  『プライスレス(Priceless)』という言葉があります。直訳すると「値段がない」ですが、実際の意味は「高価過ぎて値段が付けられない」という意味です。聖書が教える『救い』も同じです。神が人に与える『救い』は、あまりにも高すぎて、人間の努力で徳を積むことによっては到底届かないのです。それ故神は、ご自身のひとり子である『イエス・キリスト』の「いのちの代価」を支払うことによって、このイエス・キリストを通してご自身に近づく者が誰でもその『救い』を手に入れられるようにされたのです。

2022年2月13日 「逆転の神」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ          「逆転の神」         (13/02/2022) [マルコ 12:1~12] ◆たとえ話の解説   ・「彼ら」はユダヤ社会の指導者たち、「ある人(主人)」は創造主なる神、「農夫たち」は管理を任された私たち(ここでは特に『祭司長たち』)、再三送られる「しもべ」は神から遣わされた預言者たちを指す。   ・神はご自身の心を伝えるために幾度も預言者を送り、ご自身の民を御許に招かれたが、イスラエルの民は聞く耳を持たず、かえって彼らを迫害した。ここに神の「あきらめない(懲りない)愛」が描かれている。   ・これだけ拒まれているのにもかかわらず、敢えて「愛する息子」を送るのは馬鹿げているように思える。同様に私たちのこの世の人生も「正直者が馬鹿を見る」ことが多いかもしれない。しかし最後には「全てを公平にさば   かれる全能の神」の逆転勝利が備えられていることを知っているからこそ、飽きることなく『善』を行える。 ◆「任された者」としての歩み   ・神は私たちに「ご自身が創造された世界」、そして『自分自身の人生』の管理を任された。それは自分の自由に使えるが、「任せてくださった方の心」に報いたい。主イエスが言われたように「この世にあっては苦難がある」。しかし終わりに待っているのは『逆転勝利』。それを念頭に置いて、この週も歩んで行こう! ✰今日のみことば: 詩篇 118篇8節 ◎更に深い学びのために  ①この「ぶどう園のたとえ話」で、イエスは、誰のどのような態度を表現していますか?  ②この指摘に対し、祭司長たちはどのような態度を取るべきでしたか? なぜそのようにできなかったのでしょう?  ③「この世界」また「自分の人生」を神から任されている者として、どのようなことに気を付けて歩むべきですか? Outline of the sermon       “Keep your faith alive!”       (13/02/2022) [Mark 12:1~12] ◆Explanation of the parable.   ・Jesus spoke this parable to the Read more…

(476) “もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気を付けなさい。”

 何週間か前に『柔和さ』の話をしましたが、今日はこの『柔和さ』について、ちょっと違った面から考えてみたいと思います。  正義感の強い人は、「自分にも人にも厳しくする」傾向があるように思いますが、これには「良い面と悪い面」があります。『良い面』とはもちろん、自分を律し、周囲の人々に対して良き模範を示すことができる点です。ところが人にはそれぞれ違った『弱さ』があります。「分かってはいるけど、どうしてもできない人」にとって、「私もできたんだから、キミにもできないはずがない!」と強要してしまうことは、時には相手を深く傷付けることになりかねません。  上記に示した聖書の言葉の中の「自分自身も誘惑に陥らないように」というのは、何も自分が、正してあげようとしているその相手と「同じ過ち」に陥ってしまわないように、という意味ではなく、「知らず知らずのうちに、相手を蔑んだり、さばいたりしてしまわないように」という意味です。「相手を正す」とは、「相手をその過ちから立ち直らせる」ということであって、相手を糾弾することが目的ではないからです。  私たちは、何度も警告を与えたにも関わらずそれに従わなかった人が失敗を犯すのを見た時、「だから言ったじゃないか!」とか、「そうなることは目に見えてたよ~」などと突き放してしまいがちです。しかし聖書の神は、私たちをそのようには取り扱いませんでした。彼は、神を認めず敬いもしないで自分勝手な道を進んで過ちを犯した私たちのことをあわれみ、ご自身のひとり子イエス・キリストのいのちによって私たちの『過ち(罪)』の代価を十字架によって支払い、私たちが正しい道へ進むようにと、共に歩んでくださる方なのです。  『柔和な心』とは、相手の弱さを理解しつつ、それでも決してあきらめることをしないで、相手の可能性が最大限に発揮されることを求めて、相手に寄り添い続ける姿勢なのです。

2022年2月6日 「『平和ボケ』の落とし穴」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ       「『平和ボケ』の落とし穴」      (06/02/2022) [マルコ 11:27~33] ◆「地上の権威」と『信仰』 [27~28節]   ・「祭司長・律法学者・長老」というのは、ユダヤ社会における『権威者』たち。そしてその上に「ローマの権威」があった。祭司長たちは、このどちらにも従っていないイエスを陥れようと、この質問をした。一方イエスは、もう1つ別の「真に従うべき権威」の存在を彼らに思い起こさせるための質問をした。[29~30節]   ・「信仰の自由」はありがたいことだが、『落とし穴』がある。それは「中途半端な従順に甘んじる」という落とし穴。「必死に『真理』を追究し、それに命がけで従おうとする態度」が失われ、『神の権威』があやふやになる。 ◆「真の神の権威」と『信仰』   ・この2年間は『コロナ禍』の影響で不安定な状況が続いている。もしかするとこれは「今こそ、わたしを求めよ」という、神の招きなのかもしれない。今、真の信仰者が最も関心を払うべきなのは、「今後政府の方針がどうなって行くのか?」「一体いつになったら『コロナの脅威』は去るのか?」というようなことではなく、みことばや聖霊を通して訪れる「神からの語りかけ」に注意深く耳を傾け、誠心誠意従うこと。「自分のメンツを失うこと」を恐れるのではなく、むしろ「神の期待を裏切ること」を恐れて生きることである。 ✰今日のみことば: ルカの福音書 6章46(~49)節 ◎更に深い学びのために  ①祭司長たちは、どうしてイエスの質問に対して「分かりません」と答えたのでしょう?  ②『信教の自由』が与えられていることの「長所と短所」は、どんなことだと思いますか?  ③主イエスに対する「信仰や献身」をなまぬるくさせないために、どんなことに気を付けたらよいでしょう? Outline of the sermon       “Keep your faith alive!”       (06/02/2022) [Mark 11:27~33] ◆Dead faith. [Verses 27~30]   ・When Jewish leaders came to Jesus to ask Read more…