メッセージ
2012年12月2日 「イエスの『枝』として生きる」
説教あらすじ 「イエスの『枝』として生きる」 (02/12/2012) [ヨハネ15: 1-6] ◆イエスは「まことのぶどうの木」。 ・「ぶどうの木」のたとえは、旧約聖書にもしばしば登場する。➝ [イザヤ5:1-4] ◆イエスに『接ぎ木』される。 ・私たちの人生の目的は、「自分で考え、自分で努力し、自分の力で成し遂げること」ではなく、「イエスの『接 ぎ木』に徹する」ということ。すなわち「イエスにとどまり、イエスから栄養を受け、実を結んで行く人生」。 ◆「接ぎ木」として生きようとする私たちを邪魔する2つのもの。 ①プライド[4節] ・「わたしにとどまっていなければ…」すなわち「イエスに依存しなければ」ということ。このような人生態度を 生まれつきの私たちの性質は嫌う。➝ 「自分でやりたい」から。ここに『プライド』がある。 ・これは「自分の責任を果たさなくて良い」という意味ではなく、かえって「自分の使命をよくわきまえて、キ チンと果たせ!」ということ。私たち人間の本来の第1の責任は「神に対する従順」。これを差し置いて、 体面を気にしたり、自尊心を満足させようとすることこそ、無責任。 ②自己中心性(利益追求)[5節] ・「実を結ぶ」。枝は実を結んだところで、何も益を得ない。『実』はそれを取って食べる人のため。 ・私たちの人生は、自分が注目を浴びるためでなく、人々の益のためであり、イエスが賞賛を受けるため。 ◆これらの『邪魔もの』を神は取り除こうとされる[2~3節]。この「刈り込み」のために用いられるのは、みことば。 『接ぎ木』がしっかりつがれるために必要なのは、ただ「くっついている(一緒の時間を過ごす)」こと。 Outline of the sermon “Live as a branch of Jesus.” (02/12/2012) [ヨハネ15: 1-6] ◆ Jesus is the 「True vine」. ・God often used Read more…