(377) “神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる。”

 多くの日本人は「神という存在を信じていない」もしくは「自分勝手なイメージに基づいた神を信じている」ようです。そしてこの『自分勝手な神のイメージ』というものは大抵、「どんな失敗や悪い行いも赦し受け入れてくれる優しいおじいちゃんのイメージ」か、または「いつも怒っていて、ちょっとした過ちにもバチを当てる閻魔大王のようなイメージ」のどちらかなのではないでしょうか?そしてまた多くの場合、これらの『自分勝手なイメージ』は、自分が何か失敗してしまった時は「優しいおじいちゃんであって欲しい」と願うし、誰かが自分に都合の悪いことをしてきた時は、その相手に対し「閻魔大王のようであって欲しい」と思おうとする傾向があるのでしょう。  聖書は私たちにこのような「あやふやな神のイメージ」を教えてはいません。むしろ「非常に具体的で絶対的な神」を提示しています。そしてその『聖書の神』が嫌うのは、私たちの「失敗や弱さ」ではなく「高ぶる心(高慢)」だと語っています。では何故神は『高慢』を嫌うのでしょう?  神が望んでおられることは、私たちが「神の偉大さを知り、神を敬い、神が与えようとしておられる恵みを信仰によって受け取り、実り多き人生を送ること」です。ところが私たちの内にある『高慢な心』はこれらのものをはねつけ、神の「大いなる愛」や「偉大な力」が私たちの人生を通してこの世に現されることを妨げるのです。私たちの『高慢』は心の中で次のように言います。「私には神なんて要らない。私は自分の人生を『自分の力』で切り拓いて行ける。『神の存在』なんてかえって迷惑でしかない!」  聖書において『神』は「我らの父」とも描写されています。仮に誰かがその親に向かって「アンタなんか要らないよ。今の自分があるのはアンタなんかのお陰でも何でもなく、すべて自分の力だ。アンタの存在なんてウザったくて、いい迷惑だよ!」と言ったらどうでしょう?その親は怒るというより、深く悲しむに違いありません。神も同じです。聖書の神(実際には『唯一の神』)」はあなたにご自分の恵みと祝福を注ぎたくて仕方ないのに、「高ぶる者」は自分でそれを受け取るチャンスを失ってしまっているのです。  あなたの「神のイメージ」は、勝手に造り上げられたものではありませんか?あなたの心は『天地の創造主である神』に対して高ぶってはいませんか?あなたをこよなく愛し、あなたの人生を祝福で満たそうとしておられる方の前に、心を低くして近づいてみませんか?