(430) “神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。”

クリスチャンたちはよく、「キリスト教は『宗教』ではありません」という言い方をします。では一体『キリスト教』と「一般の宗教」とは、どこがどう違うのでしょうか? 1つの分かり易い説明は、一般の宗教では「善い行いが『救いの条件』である」のに対し、キリスト教では「善い行いが『救いの結果』である」ということです。キリスト教が教える『救い』は神の愛の故に全く無条件に与えられるのです。何故なら「救いの条件」は神の許から遣わされた御子イエス・キリストが私たちの代わりに全て成就してくださったからです。ですから、ただ「イエス・キリストが私の代わりに救いの条件を満たしてくださった」ということを受け入れるだけで、私たちは救われるのです。 ここで1つの疑問が生まれます。「もし『救いのための条件』を、キリストが既に身代わりに全て満たしてくださったのであれば、もはや私たちはどんないい加減な生き方をしても良いではないか!」ということにならないのだろうか?ということです。理屈としては確かにそうなのですが、結論から言えば、答えは『ノー』なのです。それは何故でしょうか? これはキリストを信じてクリスチャンとなった方々であれば誰しもが経験していることなのですが、「イエス・キリストによる救い」を受け取ると、私たちの内側に変化が起こり始めるのです。言ってみれば「神様が私たちの心にアクセスできるようになる」とでも言いましょうか。これは決して「神様がクリスチャンたちの心を意のままに操れるようになる」ということではありません。キリストを受け入れた後でも相変わらず私たちは自分たちの自由意思によって物事を決断し、行動を起こすわけですが、その心の内側に「神様に喜ばれる者でありたい」という願いが起こされるようになり、またそれが次第に強くなっていくのです。 キリスト教は、『宗教』ではなく、『関係』です。私たちを形造り、私たちをこよなく愛し、常に私たちの最善を望んでくださっている「唯一まことの神」との関係に生きる事なのです。