(494) “貧しい者に施しをするのは、主に貸すこと。主がその行いに報いてくださる。”

 「信仰と日常生活は相容れない」と考える人がいますが、聖書は日々の生活のための具体的な知恵を多く教えてくれています。今日はその中で「聖書がお金に関して語っている2つのこと」を述べたいと思います。  ①施す 聖書は基本的に「気前の良い態度」を勧めています。興味深いのは、聖書の中に『お金に対する態度』と『農夫が種を蒔く様子』を対比させていることが多々あることです。翌年の収穫のための『種』を残しておくことを惜しんで、全ての収穫物を売ったり食べたりして費やしてしまうなら、翌年の豊かな収穫は期待できません。収穫の1部を取っておくことは、翌年のための『投資』なのです。同じように「他の人に施すこと」は、あたかも種を蒔いたかのように、やがて有形無形の『神の祝福』を呼び込むことになるのです。  ②蓄える 「クレジット購入」が常識になってしまっている現代、『衝動買い』をしてしまうことが増えてしまっているのではないでしょうか?テレビのコマーシャルを観ると、どれもこれも「念のため」買っておかなければ後で困るかもしれないというような不安に襲われるかもしれません。でも実際はそれらのほとんどの物はそのまま物置に放置され、1度も使われることなく古びてしまうことが多いものです。不必要なものを買わずにいれば、おのずと少しずつ蓄えができるはずです。  神様はご自身が愛しておられる人々が乏しい思いをしていることを放ってはおかれません。でも「私腹を肥やしている人」には感心されないのではないでしょうか?親が自分の子供たちが分け合っているのを見て微笑むように、私たちが互いの不足を補い合いながら支え合うようになることを、神は望んでおられるはずです。そのためにも、「気前の良い態度」と「適度な節約」を心掛けたいものですね。

2022年8月14日 「聖書が成就するため」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ      「聖書が成就するため」   (14/08/2022) [マルコ 14:43~52](情景を思い浮かべながら読んでみよう!) ◆何が起こったのか?   ・『口づけ』は、当時のラビと弟子たちとの日常のあいさつとして習慣的だった。イエスと弟子たちは似たような服装をしていたので、ユダがこのようにしなければ、一緒に来た者たちは見分けがつかなかった。   ・ヨハネだけが「剣で切りかかったのはペテロ」と記録しているが、真相は不明。   ・『ある青年』が誰なのかも不明。「亜麻布をまとっていた」ことから、裕福な人物だったと想像される。 ◆聖書が成就するため [49節](50節も、27節の成就)   ・「どのようにして聖書の言葉が成就するのか?」には、次の3つの可能性が考えられる。(③が妥当)    ①イエスが意識的に成就した。 ②神がそう仕向けている。 ③神が全てを予見し、預言者を通して伝えた。   ・私たちは『預言の成就』を通して「神の力と誠実さ」、そして「キリストへの信仰の招き」を知る。[ヨハネ20:31]   ・聖書(神のことば)は、「預言(出来事中心。有無を言わさず「こうなる!」という宣言)」と「教え(人の選択・従順によって左右される)」に大別される。神のことばは必ず成就する。しかしそれが「私たちの人生に成就するかどうか」は神からの招きに「私たちがどう応答するか」という『神との個人的な関係』にかかっている。[ヨハネ15:11] ✰今日のみことば: イザヤ書 55章11節◎更に深い学びのために  ①今日の箇所をよく読んで、情景や出来事から分かること・考えられることを分かち合いましょう。  ②なぜ聖書の言葉は「成就する」のだと思いますか? 上記の①~③を考慮しながら話し合ってみましょう。  ③「聖書の言葉が必ず成就する」ならば、神の招きに対する『私たちの応答』は、それにどう関わるのでしょうか? Outline of the sermon      “Let the Scriptures be fulfilled!”    (14/08/2022) [Mark 14:43~52] (Read carefully to see what Read more

(493) “あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。”

 私は昭和中期生まれですが、私が生まれてから半世紀余りのうちに世界は大きく様変わりしました。自動販売機、コンビニ、パソコン、百円ショップ、そして携帯電話にスマートフォン!50年前には思いつきもしなかった『便利品』が次々と生まれ、あっという間に普及し、以前は「不可能」と思えていたのに、今は「実現可能」になったということがたくさんあります。  多くのことを思いのままに操作できるようになったため、つい「自分の人生をも自分の好きなように操れる」という錯覚に陥りがちですが、実際はこれほどまでに文明が発達し科学が進歩しても、未だに人は1分先のことも見通すことができません。相変わらず多くの人々は日々不安を抱え、カウンセリングに通ったり、占いに頼ったりします。しかしそれらの中には「人生の不安を根本的に解決する術」を見出すことはできません。何故なら、それは人間の手中にあるのではなく、「全能の神の大きな御手の中」にあるからです。  聖書は、「現されていることは人間のものだが、隠されていることは神のものである」と教えています。人が追求しても見出せないのは、神が「それはわたしに属しているのだから、わたしに信頼しなさい」と招いておられるのです。いつ?なぜ?どのようにして?などの疑問について内側で悶々と思い巡らすのではなく、「いくら考えても分からないことは、神に委ねるべき領域なのだ!」と心得て、神に信頼して委ね、私たちは自分の手の届く範囲の事に全力を尽くすようにすれば良いのです。

2022年8月7日 「仲介者なるイエス」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ       「仲介者なるイエス」     (07/08/2022) [マルコ 14:32~42] ◆祈りの2面性 [36節]   ・このイエスの「ゲッセマネの祈り」に、私たちは「祈りの2面性」というものを見出せる。 ①「トコトン神に求める」という面 ― イエスは「神にはどんなことでもできる」ということを誰よりも知っていた。だからこそ「御父の計画」を知っていたにも拘わらず、それを「取り去ってください」とさえ求めた。 ②「神の前に自分が整えられて行く」という面 ― イエスは祈りによって神に近づく中で「わたしの望みではなくあなたのみこころを…」と明け渡した。これは祈りの中で『神との交わり』を体験する者だけに起こる変化。 ◆私たちの弱さを、イエスは知っておられる [40節]   ・「祈りによってイエスを支える」はずだった弟子たちは、全く役に立たなかった!そんな弟子たちに対しイエスは「呆れたり、見放したり」はしなかった。何故なら彼は自分自身も人として『弱さ』を身に沁みて体験し、私たちの弱さに寄り添うことができるから。[へブル4:15,ローマ8:34]   ・私たちが日々神を求め、神に近づき、神の助けをいただいて前に進むことができるのは、この「私たちのためにとりなしておられるイエス」がおられるから。今週もこの『仲介者なるイエス』を見上げて歩んで行こう! ✰今日のみことば: テモテへの手紙 第1.2章5節 ◎更に深い学びのために  ①「祈りの2面性」とは、どのようなものでしょう? それらを経験したことがあれば、分かち合いましょう。  ②『自分の弱さ』を思い知らされた経験はありますか? その経験は今のあなたにどのように生かされてますか?  ③イエスは今どんな思いであなたのためにとりなしているでしょう? そんなお方にどう答えて行きたいですか? Outline of the sermon        “Jesus, the Mediator.”       (07/08/2022) [Mark 14:32~42] ◆2 Read more

(492) “わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。”

 聖書を少し知っている方は、「『愛する』ということは、命令なんてされるべきではない」と感じたことがあるかもしれません。恐らくその大きな原因は『愛する』という言葉に対する理解の違いによるものと思われます。  元々『愛する』は、英語の『Love』の訳語として日本に入って来たと思われますが、英語を話す人々は実際「I love my wife」「I love chocolate」などのように、現代日本語の「とても大切に思っている」と「メッチャ好き!」の両方の意味に『Love』という語を用います。ですから『愛する』という語を「その対象に対する感情的な盛り上がりを表現する言葉」として用いる、もっと分かりやすく言うなら「『好き』よりももっと強い感情」のように理解していることが一般的になっているのだと思います。もしそうであるなら、確かに『愛しなさい』などと命じるなんて、何だか人間の情緒を否定しているように感じられますよね。  『愛する』という言葉が聖書に登場する時、それは「内面的な感情」ではなく、むしろ「相手の最善のために自分にできることをする」というような、とても具体的で実践的な『行為・ふるまい』を表しています。極端なことを言うならば、嫌いな相手をも『愛する』ことはできるのです。そして、この『愛すること』の素晴らしい点は、キリストの戒めに従って誰かを「愛そう」としていると、いつの間にか自分の内側に相手に対する好意も湧いて来るのを感じることができ、更に素晴らしいことは「神が自分と共に相手に働きかけようとしている」というような不思議な感覚を経験できることです。  『愛すること』、それは確かに「神が人間だけに与えた、『人として生きる上での大きな特権』」ということができるのではないでしょうか?

2022年7月31日 「『つまずき』は悪ではない!」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ   「『つまずき』は、悪ではない!」  (31/07/2022) [マルコ 14:27~31] ◆信仰と情熱(passion)   ・ペテロらしい情熱が描かれている。私たちは後にペテロがどうなったかを知ってはいるが、この時ペテロは本気でこう思っていたはず。「情熱だけで支えられた信仰」はもろいが、「頭(理屈)だけの信仰」よりも、このような『情熱』のある信仰は尊いと言えるかもしれない。(神は心をご覧になる)   ・しかし、もしこのような『情熱』だけで神に従い通せるとしたら、それは「自分の栄光」でしかない。本物の霊的成長は『神の恵み』によって試練や苦難を乗り越えた時にこそ起こる。では、どうやって? ◆「つまずき」がもたらすもの   ・「つまずくこと」自体は別に悪いことではない。その後に立ち上がって再び前へ進むかどうかが重要。立ち上がれるかどうかは、「主イエスの十字架による赦し」をどのように受け入れているか、にかかっている。   ・[へブル13:5]を暗唱している人は多い。しかしどれだけの人が真に「決して見捨てないイエス」を知っているだろう?「苦難やつまずき」を経験した者だけが知る『神の恵み』がある。そのような『恵み』を知ることを通して、私たちは「神無しには生きられない」という、神ご自身が求めておられる信仰の歩みへと招き入れられるのだ。 ✰今日のみことば: ヤコブの手紙 4章9~10節 ◎更に深い学びのために  ①「情熱的な信仰」の長所と短所はどのような点でしょう? グループで話し合ってみましょう。  ②神はどうして、ご自身の子供たちが『つまずく』ことを許されるのだと思いますか?  ③自分の中に「自分自身の信仰深さ」など、『神ご自身以外のもの』に頼っている部分がないか、探ってみましょう。 Outline of the sermon     “It is ok to fall away, but…”     (31/07/2022) [Mark 14:27~31] ◆“Passion” and “Faith”.   ・Peter had a Read more

2022年7月24日 「新しい契約」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ        「新しい契約」       (24/07/2022) [マルコ 14:17~26] ◆ユダの裏切り(17~21節)   ・「生まれて来なければ良かった」などと言う人は誰もいない。全ての人は神の愛によって生を受け、神と共に生きるために生まれてくる。ユダもその1人であり、そんなユダにイエスは「寄りかかった」。しかしユダは「自分の意志で」そんなイエスを裏切った。後に彼は取り返しのつかない過ちを犯したことを悔いるがあまり首を吊った。    イエスはユダのそんな愚かな生涯を予見して、「そんな形で生涯を終えるくらいなら、生まれて来なければ…」と嘆いた。⇒だから、そんなことになる前に、ちゃんとコミュニケーションを取って誤解を解くべき! ◆新しい契約(22~26節)   ・この「最後の晩餐」が『聖餐式』の起源。「モーセの律法を守ることによって神との関係に結ばれる」という『古い契約』[出エジプト24:7-8]ではなく、イエスの代償の故に「恵みと信仰」によって神との関係に結ばれる『新しい契約』。「聖餐を受ける」という行為は、「もはや自分の行いに頼らず、神の恵みによって生きる」という信仰告白。   ・イエスはここで「ナジル人の誓い」をなさった。その誓いから解かれるのは、やがて私たちと天の御国で再会する『祝宴の場』。その日を待ち望みながら、今日は『主の聖餐』にあずかろう! ✰今日のみことば: ヨハネの福音書 6章56節 ◎更に深い学びのために  ①「自分なんか生まれて来なければよかった…」と呟く人は、どんなことを見失っているでしょう?  ②『聖餐式』にはどんな意味がありますか? それは旧約時代の「律法を守る」ということと、どう違いますか?  ③イエスの『ナジル人の誓い』を通して、あなたは彼のどのような思いを受け取りますか? Outline of the sermon       “The new covenant.”       (24/07/2022) [Mark 14:17~26] ◆Jesus foresaw Judas’ betrayal.(Verses 17~21)   ・Even though Jesus knew Read more

(491) “正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。”

 聖書は『祈る』ということを勧めています。けれど恐らく、『祈り』とは単に「宗教的な営み」であり、「気休め」であり、「非科学的だ」と言う人もいらっしゃると思います。今日はそんな方々のためにも「祈りの効能」について少し解説したいと思います。  2014年にアメリカのフロリダ州で行われた「心の健康に関する調査」では、『祈り』を中心とした教会におけるいくつかの営みは、人の健康や長寿に貢献しているという調査結果を発表しました。また「他の人のために祈っている人々」は、自分に対して嫌なことをした人を快く赦すことができ、結果として心の健康を保つ傾向があるそうです。  マイアミ大学の調査班によると、『祈り』その他の宗教的な営みを習慣的に行っている人は、他の人に比べ長期的な目標を達成する確率が高く、また強い自制心を育んでいるということが判明しました。またウィスコンシン大学の研究班は、幼い頃に何らかの虐待やトラウマを経験している人たちが、『祈り』という行為によってそれらの心の傷を数多く克服していることを発見しました。そしてコロンビア大学の調べでは、『祈り』を習慣としている人々は、そうでない人々に比べて、うつ病に悩む確率が90%も少ないことが分かりました。  これらの他にも、『祈り』が「心臓手術後の回復に貢献する」とか、「様々な中毒症状からの回復に効果がある」などの、専門家たちによる様々な研究結果が発表されています。神様は確かに『祈り』という営みを、ご自身が愛しておられる「私たち人間」が、この世がもたらす様々な『負の力』に対抗する手段として与えてくださっているのです!

(490) “人がひとりでいるのは良くない。”

 聖書は様々な角度から「共に生きる」ことの大切さを説いています。イエス・キリストも何度も弟子たちに「互いに○○し合いなさい」と命ぜられました。よく言われることですが、『人』という漢字は「互いに支え合っている様子」を表しています。  神が私たち1人1人を創造された時、それぞれに「優れたポテンシャル」を授けられました。そしてそれらのポテンシャルは、私たちが独りよがりで生きるならば、決して発揮されないものです。人間の『真価』は本来人との関係の中で発揮されるものだからです。  文明が発達し、様々な面で生活が便利になったことは喜ばしいことではありますが、それによって徐々に「他人の助けが要らない」「自分独りで生きて行ける」と錯覚しそうになることは悲しいことです。「人付き合いは面倒くさいから、できるだけ避けたい」と思われがちですが、その「面倒くさい人付き合い」を通してこそ、私たちは『忍耐』や『親切心』、そして『愛』や『憐れみ』といった、まさに神が私たちの人間性の内に育てたい要素を学んで行けるのです。そしてまた、私たちが日々の生活の中で体験できる「本当の喜び」といったものも、人と人との関係の中でこそ体験できる、神様からの素晴らしいプレゼントなのです。

(489) “あなたの唇が公正を語るなら、私の心は喜びに踊る。”

 ご存知でしたか?アメリカ歴代大統領の中で、任期半ばで辞任を余儀なくされたのは、たった1人だけだということ。この不名誉な歴史を刻んだ人物は『ニクソン大統領』です。優れた大統領であった彼が辞任に追い込まれた理由は、1本のテープに吹き込まれた彼の『言葉』だったそうです。「口は禍の元」と言われますが、一旦口を出て行った言葉は決して取り戻すことはできない。恐ろしいですねぇ。  聖書の中の『箴言』という書物には「口から出る言葉」に関する警告が150回も出てきます。いかに私たちが「自分の語る言葉」に注意を払わなければならないかを思い知らされます。調べによると、ごく普通の人が50年間に語る言葉を集めると、300ページの本12000冊分にも及ぶそうです。いわば私たちは1人1人、これだけの歴史、また財産をこの世に遺しているということができます。ある人は「自分の語る言葉なんて取るに足りないものだから…」と思うかもしれませんが、そのような人が語った言葉のいくつかも、実際誰かにとって「決して忘れられないひと言」になっていることがあるのです。  「語る内容」だけではありません。私たちが語る言葉が、「誰に対して」「誰について」「いつ」「どこで」「どのように」語られたかも、人々の人生に関わってきます。改めて「自分が語る言葉」をよぉく吟味していきたいですね。