(468) “もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、あなたがたは柔和な心でその人を正してあげなさい。”

 大変残念なことですが、多くの人は『真実の愛』をもって「耳の痛い忠告をしてくれる友人」を持っていません。たぶんその大きな理由の1つは、日本のことわざに「触らぬ神に祟りなし」と言われているように、相手が喜ばないことは言わないでいる方が気楽だからでしょう。言い換えるなら、「長きにわたる真実の友情を築くよりも、目先の関係を保つことを重視」してしまうのです。  あるところに「ブレーキの利きが悪い車」があったとしたら、あなたは自分の愛する人にそんな車を運転することを勧めるでしょうか?そんなことをするわけないですよね?たとえその相手がどんなに「私は急いでるんだから、とにかくこの車を今すぐ使わせてよ!」と声を荒げてあなたに迫ったとしても、あなたは決してその車の鍵を渡さないはずです。「こんなところで言い争いをするのは嫌だから、ともかく運転させてあげよう」とは決して言わないでしょう?  もちろん、「人のあら捜しをして、その欠点を積極的に指摘した方が良い」と言っているわけではありません。思慮の無い忠告は人を深く傷つけることがあります。ここで言っているのは、『真の思いやり』というものは、たとえその場では相手に嫌われてしまうことがあったとしても、誠実さと断固たる態度を持って、相手にとっての『最善の道』を提供することなのです。本来『愛』というものの性質は「相手の最善のために、自分自身が払う犠牲を惜しまないこと」。そしてそんな『愛』の完全な模範はいつでも、「私たちと神との関係を回復させるために、十字架の上で命をささげたイエス・キリストの姿」なのです。