(661) “神の恵みを無駄に受けないようにしてください。”
多くの「宗教」は何らかの『救い』という概念を提供していますが、そのほとんどは「~からの救い」というものです。ところが聖書が教える『救い』は「~から」というよりは、むしろ「~のための救い」といった様相が強いように思われます。もちろん聖書の救いも「罪・死・さばき」からの救いという側面もありますが、それ以上に「それは神との関係が回復されるためであり、またそれによって私たちが地上で『神の栄光』を輝かせるためである」というのが聖書の中心的なメッセージです。 神は私たちを、ご自身の『栄光(素晴らしさ・偉大さ)』を地上で表現する存在としてお造りになり、またこの地上に置かれました。ところが私たちは神から離れて自分勝手な生き方へと走り、結果「神の恵みや祝福」を味わうことができなくなってしまっていました。そんな私たちを神は憐れんで、もう1度ご自分の許に取り戻すために、私たちの「罪の代価」を「罪なきひとり子イエス・キリスト」に身代わりに負わせることによって、私たちとの関係を回復してくださいました。ここまでがいわゆる「~からの救い」の部分です。そしてこの『救い』を受け取ることで甘んじてしまっている人もいるわけですが、それは「神の心を全然理解していない」というものです。 神は人間を、私たちが考えているよりも遥かに「尊く・優れた存在」として創造されました。私たちは神との関わりの中でまさしくイエス・キリストが歩まれたような「愛と力に満ち溢れた人生」を生きることができる者としてお造りになったのです。これを知らずに「~からの救い」だけに甘んじてしまうならば、それは「せっかく与えられている大いなる可能性にフタをして生きること」になってしまうわけです。 いわゆる「宗教」は、これらの『優れて偉大な人生』を「救いの条件」にしてしまって、「これこれの修行を積んだら救われる」とか「これだけのものをささげたら救われる」などと教えますが、それらは「救われたからこそ可能になる生き方」であって、自分の力で「救いの条件」を満たすことができる人は1人もいないのです。
