(366) “主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことはわずかです。あるいは1つだけです。」”

 皆さんが日常的に使っている『便利品』は何ですか?と尋ねられたら、きっと多くの方々は「スマホ!」と答えるのではないでしょうか?『スマホ』って便利ですよね~。電話はかけられる。ラインなどでビデオ通話もできる。Eメールやフェイスブックもチェックできる。カーナビ機能もある。他にもカレンダー、ビジネスダイアリー、懐中電灯、紛失したときの探索機能・・・数え上げたらキリがありません。  実は最近知り合いがこのスマホを外国滞在中に失くしてしまって、探索のための設定をしていなかったために見つけることができず、ものすごく困ってしまったことがありました。あまりにもスマホが便利だったために、それを失くしてしまった時の影響も膨大なものになってしまったわけです。皆さん、スマホに頼りすぎるのは危険ですよ~。  そもそも人はどうして「便利さ」を求めるのでしょうか?初めは恐らく「便利になることによって物事が能率よく進み、時間に余裕ができて、よりゆったりとした生活をするため」だったのだと思うのですが、実際は「便利になることによって物事が能率よく進み、よりたくさんのことをしたくなって、自分の許容量以上の物事をこなそうとして、かえって忙しくなりすぎて自分自身を見失う」ようになってきてしまっているのではないでしょうか?よく言われることですが「忙しい」の『忙』の漢字は「心を亡ぼす」を意味しています。私たち人間は、忙しくなると「心が滅びて」いくのです。  私たち家族は、1999年から2003年まで「バヌアツ共和国・ウリピブ島」という、電気もガスも水道もない未開の孤島で暮らしていました。生活に慣れるまでは本当に苦労しましたが、この『シンプル・ライフ』に慣れると、毎日の暮らしが本当に生き生きと楽しくなったことを覚えています。何よりも素晴らしかったことは、「不便な分、他の人たちと協力して暮らさなければならず、島の人々とドンドン親しくなって行って、1年経った頃からは『本当の家族』のようになっていった」ということです。『不便さ』は、「人と人とを近付けてくれる」ようです。ということは、『便利さ』は「人と人とを疎遠にする」のかもしれません。  主イエスは「必要なことは、ほんのわずか」とおっしゃいました。そしてそのほんのわずかな『本当に必要なこと』を見つけるためには、まずペースダウンして「周りの人との関係」というものを重視した生活を始めるべきなのかもしれませんね。

(365) “あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、・・・保たれていますように。”

 もうずい分昔のCMですが、『シャット』というトイレの消臭剤のコマーシャルのキャッチフレーズで「クサイにおいは、元から断たなきゃダメ!」というものがありました。そりゃあそうですよね。いくら表面だけを取り繕っても、原因そのものが解決されなければ、いずれまた同じ問題が浮上してくるのは目に見えています。  世の中には『宗教』と呼ばれるものが数多くありますが、それらのほとんどは「修業や教育」によって人間の悪習慣や精神的弱さを『矯正』させようとするものです。まあ多少の効果は期待できますが、前述のCMのように、いくら外側に現れている症状だけを緩和しても「元を断たなければ」本当の解決とはなりません。  聖書は、人間の存在は「3つの部分」すなわち『体』『たましい(心)』そして『霊』によって構成されている、と教えています。そして1番内側にあるこの『霊』の部分(ココが私たちの創造者である『神』を認識する部分なのですが…)が、私たちの『罪』の故に生まれつき死んでしまっていて、私たちは神を認知することができないのです。その『霊』を再び生かすために地上に来られたのが『イエス・キリスト』です。私たちがこの方を個人的な「救い主」として信じるなら、私たちの『霊』は息を吹き返し、「創造主である神との豊かな関係」の中で生きる者とされるのです。  ところで、『信じる』とは一体どういった感覚なのでしょうか?一生懸命に「信じるぞ~、よぉしオレは信じる!信じま~す!!」と自分自身に言い聞かせることでしょうか?もちろん、そんなことではありません。聖書は「幼子のようにならなければ神を信じることはできない」と書いてあります。つまり、幼子が全く疑うことなく自分の親の言うことを真に受けて喜んで従うように、素直な心で単純に「神様は良い方で、私を心から愛し慈しみ、私を救い、最善の道へと導いてくださる」と信じて、心を開き、神からの働きかけを受け取ることです。そうすると神はあなたの心の内にある『霊』の部分に触れて生き返らせ、あなたが自分の力ではどうしようもできなかった怒り・寂しさ・心の痛みなどを優しく癒し、内側から造り変えてくださるのです。「イエス・キリストを信じて生きること」は『宗教』ではなく、このような『神との関係』に生きることなのです。

(364) “怒りを遅くする者には豊かな英知がある。気の短い者は愚かさを増す。”

 2017年に行われたある調査によると、殺人の動機の半数以上が『怒り』によるものだそうです。まあ確かにそうかもしれませんが、もっと危険なのは『怒り』は他の人を殺す原因になるだけでなく、怒っている人自身の命をも蝕んでいるということです。統計によると「敵意や怒り」というものは、心臓疾患の原因の中では最たるもので、継続的に怒りを抱き続けている人は通常の人の5倍の確率で心臓の動脈に支障をきたし、怒りによる心臓発作で死ぬ可能性が非常に高くなるそうです。  では、単に「怒らなければ良い」ということなのでしょうか?決してそういうわけではありません。『怒り』というものは、神から与えられた感情であり、実際に神様ご自身もお怒りになることがあります。(この世に蔓延する『悪』に対してとか…)問題は、その『怒り』を適切に制御できないことにあります。『怒り』はある意味「川の流れ」のようなものです。正しく操作されれば、町中に必要な「電力」を供給することができます。しかし、制御されていない『怒り』は「川の氾濫」のように町を破壊してしまいます。  「でも『怒り』というものはそんなに簡単に制御できるものではないのでは?」と思いますか?ならばちょっと想像してみてください。あなたが「夫婦喧嘩」または「親子喧嘩」真っ最中だとします。そんな時突然電話がなりました。あなたは『一時休戦』して受話器を取り、いかにも何事も無かったかのように平静を装って、「はいは~い、何かご用ですかぁ?」と応対することでしょう。そうです。『怒り』というものは、本人さえその気があるならば制御可能なのです。  「自分の置かれている状況」というものを落ち着いて観察することを心がけるなら、不必要な『怒り』に振り回されずに事を解決することができます。もし「自分は短気で、すぐ怒る傾向がある」と思う人には、良いアドバイスがあります。今度「ムカっ」とした時は、言葉を発する前に10秒数えてみてください。そしてもし「メチャクチャ頭に来た時」には、まず100を数えて、そのままその場を立ち去りましょう!

(363) “人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。”

 他の人のためになることをすることは、多くの場合「後味の良いもの」です。ただそれが「相手から賛辞や見返りを受けるためにする」ようになると、喜びが半減したり、かえって「嫌な後味」を残すものになったりすることがあります。もちろん何か他の人のためにしたならば、相手から感謝されることを期待してしかるべきですが、必ずしも私たちの期待通りの反応が返ってくるとは限りませんよね?そんな時私たちはつい『自己憐憫』に陥ったり、周囲の人を責めてしまったりします。せっかく『喜び』を得られるはずだった「良いもの」が、『悲しみ・後悔』を生み出す「無価値なもの」に思えて、「もう誰かのために何かをするなんて意味が無いからや~めた!」というような結果になってしまったら、あまりにも悲しすぎます。  そこで朗報があります!何と、私たちが心を込めて行った『良いわざ』を「もれなく正当に評価してくださる方」がおられるのです!それは、私たちを創造し、この世に送り出し、そしてこよなく愛してくださっている『天の父なる神』です。彼は私たちの髪の毛1本1本をも知っておられる方で(あなたは昨日あなたの髪の毛が何本抜けたか知ってましたか?)、当然のことながら、私たちが他の人のために良かれと思って行ったことを1つ残らず記録してくださっているのです。そしてそんな私たちの「小さな犠牲」を、『尊い』と評価し、私たちの心の深い部分で『喜び』を共有してくださるのです。  ただ、この『喜びの共有』のためには、1つのコツが有ります。それは、それらの『愛の行い』を、相手に気付かれないように「そっと行う」ことです。上記の聖書のことばの続きには「あなたの隠れた行いを、隠れた所で神が見ておられる」と書いてあるのです。神様は「この世であなたの善行が認められたなら、それはそれで良かったね。でももし誰にも気付いて(評価して)もらえなかったとしても、落ち込む必要はないよ。わたしはちゃぁんと知ってるからね。」と語りかけてくださっているのです。  さあ、もう「誰かに認めてもらえるかどうか」などということは心配せずに、ドンドン周囲の人に愛と親切を振りまいて行きましょう!

(362) “私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。”

 私の住んでいるニュージーランドは日本とは季節が逆なので、今は初夏を迎えています。そしてここクライストチャーチは南島にあるため年間平均気温がかなり低く(日本の札幌くらい?)、ようやく日中の最高気温が15度を超えるくらいになってきました。私はこの季節が好きです。何故なら、ほんのちょっぴりですが我が家には裏庭があり、ささやかな『家庭菜園』を営んでいて、いよいよこの夏・秋に向かっての種や苗を植えることができるからです。  さて、大抵の野菜は種を蒔いてから発芽するまでに10日くらいかかります。この10日間はとても長く感じられます。毎日水をやりながら「早く芽が出てこないかなぁ」とワクワクしながら待っているわけですが、実際私の目には見えなくても、地面の下では種子の中の『いのちの息吹』が活発に活動しているはずです。そしてやがて根が出てきて地中にしっかりと根を張り、その後に芽が出てきて徐々に上に向かって伸びて行き、地面を突き破って私たちの目にも見えるようになるわけです。  さてこれがもし、根が張る前に発芽してしまったらどういうことになるでしょう?きっと種子は地上の部分の重さに耐え切れず、倒れて枯れてしまうことでしょう。大きく立派に成長し美味しい実を実らせるためには、まず『見えない部分』の根がしっかりと地中に深く広く張り伸ばされなければならないのです。  私たち人間の成長もこれと同じではないでしょうか?私たちはついつい「目に見えるところ」ばかりに気を取られて、多くの物を買い集めたり、より責任ある高い地位を求めたりしがちです。しかし肝心の私たちの『内面』が十分に成熟していなかったら、せっかく「目に見える多くの価値あるもの」を手に入れたとしても、それらを尊く効果的に活かして用いることができず、結局「宝の持ち腐れ」になってしまうのではないでしょうか?  「神なんて目に見えないから信じない!」とおっしゃる方々がいますが、その「目には見えないけれども実在し、目に見えない私たちの内面を養い育ててくださる神様」を求めて生きることこそ、私たちが「目に見える世界」において価値ある人生を生きる土台となっていることを、ぜひ知っていただきたいと思います。

(361) “怠け者の心は欲を起こしても何も得ない。勤勉な者の心は豊かに満たされる。”

 働くことに疲れたある人が、心の中でつぶやきました。「もし宝くじが当たって1億円もらえたら、もうこんな風に毎日苦労して仕事をしなくても済むのになぁ…」  その夜彼は面白い夢を見ました。何とそれは宝くじで1億円を当てた夢だったのです。その夢の中で彼は翌朝ベッドから跳ね起きると、興奮冷めやらぬ気持ちのまま、いつものようにシャワーに向かいました。ところが何とシャワーのお湯が出てこないのです。仕方なくシャワーせずに朝食を食べようとキッチンに向かい、コーヒーを沸かそうとすると、何とコーヒーメーカーが作動しません。一体どうしたことなんだ?と思いつつトーストを焼こうとすると、何とトースターも動きません。少々イラつきながら郵便受けに新聞を取りに行ってみると、新聞も来ていないのです。何が何だか分からない気持ちで、ともかく職場に向かおうといつものバス停に行ってバスを待っていると、待てど暮らせどバスが来ないのです!すっかり途方に暮れてしまった彼は、通りがかりの人に尋ねました。「すみません、1つお尋ねしますが、朝からどうも生活がうまく行かないのですが、何かあったのでしょうか?」 するとその人は答えました。「あぁ、ご存知なかったのですか?昨日、国民全部が1億円を当てたので、今日から誰も働いていないんですよ。」  その瞬間、彼は目を覚ましました。何とそれらはすべて『夢』だったのです。それに気付いた彼は思わず大声で叫びました。「神様、1億円当たったことが夢であったことを感謝します!」 そして彼はベッドから跳ね起きると、今までで1番幸せなシャワーを浴び、今までで最高に美味しいコーヒーを入れ、かつて食べたこともないほど上手に焼けたトーストと一緒に、驚くほど素晴らしい新聞を読みながらいただき、最高のドライバーが運転する最高のバスに乗って、踊るような気持ちで人生最高の仕事をするために職場へと向かいました。  誰にでも「いつもの仕事をいつものようにこなすこと」に疲れてしまうことがあると思います。でもそんな時にはぜひ思い描いてみてください。そんなアナタの『何気ない営み』によって保たれている「何気ない日常の祝福」を味わっている人たちがきっといるのだ、ということを。神様は何も『特別なこと』のためだけにおられるのではないのです。

(360) “人がひとりでいるのは良くない。”

私たち人間は皆、1人で生きていくことはできません。それは「1人ではすべてのことはできないから(「電気屋さん」や「水道屋さん」や「農家の人々」や「スーパーマーケット」も必要だから)」という意味ではなく、神が初めに人を造られたとき「1人で生きるようには造らなかった」からです。よく言われることですが、『人』という漢字は「人と人とが寄り掛かり合っている姿」を文字にしたものです。『人』はそのように「寄り添いながら生きるように」できているのです。だからこそ1人でいると私たちは『寂しい』と感じ、「寄り添ってくれそうな人」を捜すのではないでしょうか? ところが、近年の文明発達や『個人主義』の風潮も手伝って、「勤め先や学校に話し相手がいない」「家に帰っても1人でテレビを観てるだけ」「休日を一緒に過ごす友達もいない」などという人が増え、やがてそんな風に1人で過ごすことに慣れてしまって、『寂しい』と感じる心さえ麻痺し始めているようです。でもふとしたはずみで、それまで押さえていた『寂しさ』や『心の痛み』がドッとあふれてきて、思わず叫んでしまう。「あぁ、どうしてこんなに寂しいの!どうしてこんな人生を生きなきゃならないの!一体私はどうしたらいいの!?」 神は「アナタが1人でいること」を望んでおられないだけではなく、「アナタが1人でいる寂しさに押し潰されてしまうこと」も望まれません。そのために『ひとり子イエス・キリスト』を地上に遣わされました。イエスは、アナタの『究極の友』です。アナタの心の痛みや寂しさを理解し、アナタの傍らに寄り添い、優しくアナタの心に触れ、そのうずきを癒してくださる方です。実は彼自身も同じような『拒絶』や『裏切り』を経験されたのです。彼は自分の家族にさえも理解されませんでした。当時の社会的リーダーたちには敵対視され、3年半共に歩み「生涯あなたについていきます!」と豪語していた弟子たちも、イエスが十字架刑に定められたとたん、逃げ出して行きました。(そのうちの1人は、イエスが十字架にかかることになるきっかけを作った張本人でした) 『人生の友』を必要としていますか?ならば神に求めてください。きっと与えられます。そしてその出会いを待ち望んでいる間、この『アナタの寂しさを完全に理解してくださる方』とのリアルな出会いを、ぜひ体験してみてください!

(359) “正しい人は7度倒れても、また起き上がる。”

1914年12月9日の晩、トーマス・エジソンの研究所は火事のために一夜にして灰になりました。数々の研究の成果や研究途中の資料はすべて燃えてしまい、損失額は当時の金額でも2百万ドル以上。しかし建物が鉄筋コンクリートだったために油断していたせいもあり、ちゃんとした火災保険には入っておらず、降りた保険金はたったの238ドルでした。 67歳にして、少なくとも過去7年間の研究成果を、偉大な発明王エジソンはすべて失ってしまったわけですが、翌日になり、ようやく沈下した黒焦げの火災現場を眺めながら、彼はこう言ったそうです。「いやぁ、今までにいろいろと研究に失敗したけど、その失敗の証拠も全部始末してもらえたわけだ。神様ありがとう!これですっきり新しい気持ちで新しい研究を始められます!」 あなたもきっと何か大切なもの(人?キャリア?)を失って落ち込んだ経験がおありだと思います。でも大丈夫。どんな失敗や損失も、たとえその時は「もう取り返しようがない」と感じたとしても、必ず巻き返すことができます。私の妻も大学生の時に自宅を全焼で失ったことがありますが、その経験を通してかえって「目に見えるもの全てを失っても、相変わらず失われることのない『神』の存在」をしみじみと体験できたと言っていました。 神と共に生きる人生は「何度でもやり直せる人生」なのです!

(358) “キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。”

  日本の古くからの言い回しに、「罪を憎んで人を憎まず」という言葉があります。本当に心を深く探られる言葉だと思います。私たち人間は本当に弱いワガママな存在で、「自分に都合が悪い存在」や「どうしても好きになれない相手」を排除しようとする傾向がありますが、神は本来私たち人間を『互いに受け入れ合い愛し合う存在』としてお造りになりました。そして「神のひとり子」として来られたイエス・キリストは、まさに地上での生涯において私たちにその模範を示してくださったのです。 キリストはご自身が「罪のない、きよい存在」であったにもかかわらず、当時社会からつまはじきにされていた病人や貧しい人々、そして『罪人』というレッテルを貼られた人たちと多くの時を過ごされました。そのような生き方を、ユダヤ教の宗教指導者たちから問題視された時、彼は言いました。「医者を必要としているのは丈夫な人ではなく、病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」 私たちは「自分はまともだ。人の助けなんか受けなくたって生きていける。」と思いたい存在です。でも実際心の中では「自分は弱く醜い存在で、そんな自分の姿を知られたら、人は皆自分から離れて行く」と恐れているのです。でも安心してください。キリストはまさにそんなアナタが正直に自分の醜さ・弱さを認めたとき、「私の友よ」とありのままのアナタを受け入れてくださるのです。そして私たちは「『ありのままの自分』を受け入れてもらう」という経験を通して、少しずつ「罪を憎んで人を憎まず」に、互いを受け入れ合って生きる者へと変えられて行くことができるのです。

(357) “たとえ、死の陰の谷を歩むとしても、私は災いを恐れません。あなたが、ともにおられますから。”

もしかしたら、ある方は「神様を信じたら、もはや人生に問題は無くなる」と思っておられるかもしれません。しかし、実際はそうではありません。では『神を信じて生きる人生』の良い点とは、一体何なのでしょう?それは「どんな問題の中にあっても、神が共に歩んでいてくださる」ということです。では、神が共に人生を歩んでくださっているのに、なぜ神は私たちが問題に直面することを許されるのでしょうか?それは、神が私たちに「ご自身に信頼して生きる者のために、神がどのようなことをしてくださるのか」を示そうとしておられるからです。 私たちが恐れるとき、神は平安を与えることができます。私たちが失望・落胆しているとき、神は希望を与えてくださいます。私たちが心を痛めているとき、神は慰めと癒しを与えることができます。私たちが乏しいとき、神は必要を満たしてくださいます。そして私たちが目標を見失って迷っているときに、神は真理によって私たちを『いのちの道』へと導くことができるのです。 ナチス・ドイツの強制収容所において家族全てを失った『コリー・テン・ブーム』という女性は、神と共に生きる人生について次のように述べています。「もし憂鬱な気持ちになりたいのなら、自分の内側を見つめてればいい。もし打ちのめされた気持ちになりたいのなら、自分の過去を見つめてればいい。もしどうして良いか分からない気持ちになりたいのなら、自分の周囲を見つめてればいい。でももしそれら全てから解放された人生を歩みたいのなら、自分の上を見上げたらいい。そこにはあなたを見つめておられる神がおられる。」 神はあなたの問題の真ん中で、あなたと共にいてくださるのです。