2012年10月28日 「更に大きなわざ」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ         「更に大きなわざ」      (28/10/2012) [ヨハネ14: 7-14] ◆「わたしを見た者は、父を見たのです。」[9節]  ・「外見が似ている」ということではなく、御父から全権を委ねられて語り、また行っていたから。 ◆「わたしのわざを行い、更に大きなわざを行う。わたしが父のもとに行くから。」[12節]   *イエスが父のもとに行ってから何が変わったのか?     ①イエスに「すべてにまさる名」が与えられた。[ピリピ2:9-11]     ②聖霊が遣わされた。[ヨハネ16:7]   ③イエスが父の御座の右でとりなしてくださる。[ローマ8:34] ◆「わたしのわざを行い、更に大きなわざを行う。」[12節] とは?    ①イエスが地上でなさっておられたみわざを継続する。 ・イエスは、地上における悪魔の束縛を打ち壊すために来た [Ⅰヨハネ3:8]が、私たちには支配権を失った 悪魔から、神のもとへ奪い返す権威が与えられている。〈必要条件〉自分が権威の下にいること。[マタイ8:5-10]    ②地上に対してだけでなく、イエスの御名によって、天と地の両方向に働きかける。 ・[13-14節] イエスは父のみこころを地上で成し遂げるために来たが、私たちにはイエスの御名によって御国 の支配を地上に押し広げる権威と共に、働きの必要を求めて天に働きかける特権も与えられている。 *「イエスの権威のもとに御国を拡大して行く」とは、具体的にどういうことか? 〈BFPの働きの証し〉 ◎悪魔が恐れているのは「自分のことばかり考えているクリスチャン」ではなく、「イエスの栄光のために神のみこ とばにトコトン従い、委ねられた愛と権威とを用いてこの世に挑んでいくクリスチャン」。➝ [ヨハネ16:33]    Outline of the sermon    “Even greater things.”   (21/10/2012) [ヨハネ14: 7-14] ◆“Anyone Read more…

2012年10月21日 「イエスは 神のことば」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ         「イエスは 神のことば」      (21/10/2012) [ヨハネ14: 1-6] ◆[2~3節]  ・「住まい」は、ギリシャ語『メノ―』(神のうちにとどまる)の派生語で、「神と共なる場所」の意。 ◆神のことば「イエス」[ヨハネ1:1, 14, 18]   ・誰も神を見た人はいない。イエスこそ「神のことば」であり、聖書のことばの中にイエスが生きておられる。 ・弟子たちは、イエスが語られる「ことば」の内にこそ、神の本質『いのち』があることを見出した。[ヨハネ6:68] ◆[6節] (「わたしが」を「神のことばが」に読みかえると、分かりやすい)    ①道 :正しい選択のための判断基準    ②真理 [ヨハネ17:17] :様々な価値観や、人々の評価などによる混乱から、私たちを救い出し、自由にする。 ③いのち [マタイ4:4] :キリスト教は退屈ではない!人生を「宝捜し」に変える。  *「イエスを通して、もっと親密な神との関係を築きたい!」という人は、『みことばに触れる時間』を増やすべき。 〈「天国の人」ブラザー・ユンの証し〉 ◎神のことばそのものに力があり、そこにイエスが生き生きと生きている。 ◆[詩篇1:2-3]  ★毎朝聖書を読む人は、毎朝イエスと出会っている!     Outline of the sermon    “Jesus is the Word of Read more…

2012年10月14日 「『愛すること』への招き」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ         「『愛すること』への招き」      (14/10/2012) [ヨハネ13: 31-38] ◆イエスの「最後の教え」  大きく2つのポイントに分けられる。 ①イエスが愛されたように、私たちも互いに愛し合う。  ②「もうひとりの助け主」 = 聖霊  ・この2つは、実は1つのことであって、「キリストに従う者の歩み」のカギであり、すべてである。すなわち…   「神は私たちが、キリストが愛されたように互いに愛し合うようになることを望んでおり、それは『私たちの自分 の力』ではなく、神のもとから遣わされる『聖霊の力』によってのみ可能である」 ということ。 ◆「キリストが愛されたように」とは?   ・「自分の努力や熱心によるのではなく、聖霊に全面的に頼ることによって」という意味。そのために私たちにできるたった1つのことは、「神は100%善い方である」と信じて、自分の自由意志を、敢えてこの方に従わせること。[ルカ9:23-25] 「自分を捨てる」 ≠ 「自分を失う」 ◆ペテロの失敗(私たちも陥りやすい) [36~38節]    ・ペテロは「自分は誰よりも熱心だから、最後までイエスについて行ける」と自負していた。(「いのちを捨てる」と言って いても、『自分』を捨てていない!) これに対しイエスは「聖霊なしには、ついて来られない」とおっしゃった。[36節] ◆[35節] ・これは「あなたがたの間の愛を見て、人々もキリストを信じるようになる」と言っているのではなく、人々が「彼ら は単なる『いい人』なのではなく、『自分をキリストに従わせている人々なのだ』」と認めるようになるということ。 ◆愛は地球を救う?[ローマ8:38-39]  ・「人間愛」は決して地球を救えない。「キリストを通して現された不変の愛」が私たちから流れ出る時、人々は救いを見る。     Outline of the sermon    “Invitation to love.”   (14/10/2012) [John Read more…

(61) この世と調子を合せてはいけません。

いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。 ある男性が銀行に入ろうとした時に、すぐ後ろから女性が続いているのに気付いてドアを開けて待っていたところ、その女性はお礼の代わりにこう言いました。「私が女性だからって、何もわざわざドアを支えていて下さらなくても結構よ。」 それを聞いた男性は微笑みながら答えました。「いえいえ、私がドアを支えていたのは『あなたが女性だから』ではなく、『私が紳士だから』です。」 キリストを信じる者として、私たちが他の人たちと『ひと味違った』生き方をするとしたら、それは「私たちがキリストにあって何者であるか」によるのであり、「人々が私たちクリスチャンにそうすることを期待しているから」ではありません。私たちは「人を恐れる者」ではなく、「神を恐れる者」です。「人のご機嫌を取って点数を稼ぐ者」ではなく、既に神様から『愛する我が子』としての称号をいただいている者なのです。 昔、ある貿易会社の船が初めての日本上陸を目の前にした時、取引のリーダーが乗組員たちに次のように告げたそうです。「いいか。これから上陸する国の人々にとって、私たちは皆『外国人』だ。彼らは私たちの国のことを全く知らないし、もちろん言葉も分からない。ということは、彼らにとって『私たちの中に見る物』が、私たちの祖国に関するすべての情報となるわけである。諸君、日本の人々が『あの人たちは、一体どんなに素晴らしい国から来た人々なのだろう?』と感心してもらえるような態度で、これからの日々を過ごそうではないか!」 私たちが人々に証しするのは、単に「私たちの人柄」ではなく、「私たちのお国柄」です。この世の習慣に倣って媚を売るのではなく、キリストに倣ってこの世の人々を魅了し、彼らの「天の御国への移民願望」を駆り立てようではありませんか!

(60) 死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。

これは本当にあった話です。1人の先生が、受け持ちの生徒たち1人1人にリボンを渡してこう言いました。「あなたたちは、このリボンを使って世界を少しだけ変えることができます。このリボンを、ぜひ、あなたの人生に良い影響を与えてくれたと思える人に、感謝を込めてプレゼントしてください。渡す時、今私があなたたちに言ったのと同じことを伝えるのを忘れないように。」 さて、このリボンをもらった生徒たちのうちの1人が、彼の進学に良いアドバイスをくれた先輩に、このリボンをあげました。そしてその先輩は、自分の職場の上司にこう言い添えてそのリボンを渡しました。「あなたはまだ未熟な私に多くの指導を与えてくれています。あなたの創造性と実行力には、いつも感服させられっぱなしです。ところで、このリボンを、ぜひあなたの人生に大きな幸福を与えてくれた人物に差し上げて下さい。」 この上司は、自宅に戻った後、反抗期真っ最中の息子の部屋へ行き、リボンを差し出して言いました。「『このリボンを、自分の大切な人に渡すように』と言われたんだが、ぜひお前にあげたいんだ。お前にはいつも『遊んでばかりいないで、勉強しなさい!』とか、『少しは部屋をキチンとしなさい!』とか、怒鳴ってばかりいたが、実のところ、私の人生を最も豊かにしてくれているのは、お前のお母さんを除けば、それはお前に他ならない。私たちのところに生まれてきてくれて、本当にありがとう。愛しているよ。」 すると、息子はこらえきれなくなった涙をこぼしながら、次のように言ったそうです。「実は、ついさっき『遺書』を書き終えたところだったんだよ。そして今夜皆が寝ている間に自殺するつもりだったんだ。だって、お父さんがボクのことを愛してくれてるって、今まで分からなかったんだもの。でも、どうやらこの遺書はもう必要なくなったみたいだね。」 私たちの口から出ることばは、文字通り、人を生かしも殺しもする力を持っています。聖書には「時宜にかなったことばは、いかにも麗しい」という一節もあります。さあ、今日も出て行って、普段あまり気にかけていない人に対してでさえも、励ましと感謝の言葉をかけてみようではありませんか!

(59) 二心(ふたごころ)の人たち。心を清くしなさい。

前回、「時間の上手な使い方」に関連して『優先順位』のお話しをしましたが、実はこの「正しい優先順位を確立する」ということは、『人間関係』で悩まなくなるためにも、大いに役立ちます。 「『人間関係の悩み』というものは、人間生きている限り、一生つきまとうもの」とあきらめてしまってはいませんか?実はそんなことはないのです。ちゃんと解決法があるのです。それを見出せない大きな理由の1つは、私たちの中にある「『八方美人』になりたがる性質」にあります。「誰からも嫌われたくない」「あの人を敵に回すとやっかいなことになるから、おべっかを使っておこう…」などとあちこちに気を回しすぎて、肝心な人々に時間や労力を費やさずにいるために、足をすくわれたり、燃え尽きてしまったりするのです。 私事ですが、最近こんな出来事がありました。どういう成り行きだったか忘れましたが、我が愛する妻にこんなことを言われたのです。「あのねアナタ。アナタはすべての人を幸せにしようとガンバっているみたいだけど、アナタは私のことさえ『最高に幸せ』にしてくれれば、それでいいのよ?」 この言葉は、私に大きなショックを与えたと同時に、はっきりと目を覚ましてくれました。「そうだ!私は24年前に、他でもない、神様の前で『健やかな時も、病む時も、この女性を愛し慈しむこと』を誓ったのだ!」そうなのです。たとえ私が他のすべての人にさげすまれようとも、この妻を「最高に幸せ」にしてあげられたなら、私は神からの『合格印』を押してもらえるのです。なんてシンプルなのでしょう。たった1人の人に全力を尽くしさえすれば、それで良いのです。 もちろん、1人の人でさえ「最高に幸せにする」ことは、決して簡単なことではありません。また、それは「他のすべての人を不幸にしても良い」ということでもありません。しかし、「幸せにすべきたった1人の人」をさえ喜ばせることのできない人間に、他の誰を真に喜ばせることができるというのでしょう? 人生もまた同じです。私たちは皆、「自分を喜ばせるため」に生まれてきたのではなく、「唯一まことの神」をお喜ばせするために、神ご自身に似せて造られたのです。そのことを忘れて、「自分の満足」「自分の喜び」「自分の得」ばかりを追求して生きていくなら、いつのまにか『まやかしの幸福感』にすっかり騙されて、複雑怪奇で焦燥感にあふれる人生の中に埋没していきます。 人生は私たちが考えているより、ずっとずっとシンプルです。私たちが幸福にするために、神が私たちの周りに送ってくださっている人々は、ほんのひと握りです。それが誰なのかをしっかりと見極めて、限られた人生をたっぷりと注いでいこうではありませんか。

2012年10月7日 「隔ての壁は壊された!」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ         「隔ての壁は壊された!」      (07/10/2012) [ヨハネ13: 21-30] *「最後の晩餐」の席でイエスの両隣にいたのは、ヨハネとユダ。(2人とも深く愛されていた [23,26節]) ◆何がこの2人の明暗を分けたのか? ・詳しくは分からないが、1つ考えられるのは「イエスに対する理解の違い」。[『放蕩息子のたとえ話』の兄と弟] ・決してユダだけが特に邪悪だったわけではない。結局皆がイエスを見捨てて逃げた。ユダは後で首を吊った。 ◆たった1つ、ユダの心の態度を暗示する表現 [30節] ➝ [ヨハネ3:19-21]   ◎勘違いしないで!     ・『さばき』は、私たちの「悪い行い」の故ではなく、私たちが「光」と「やみ」のどちらを選ぶかにかかっている。 ◆何が神と私たちとの間を隔てているのか?   ①神が私たちに近づくのを妨げるものは、『罪』そのもの。      ・これは「イエスの十字架」によって清算された。今や神は何の妨げもなく、私たちに近づくことができる。     ②私たちが神に近づくのを妨げるものは、『不信仰』または『罪責感』。 ・既に『罪の壁』が壊されたにも拘わらず、「光の神に近づいたら、醜さがバレる!」と恐れて、神の許に行こうとしない。これが『悪魔の力』。しかし、聖書には解決策が提示されている!=[Ⅰヨハネ1:7-9] ◆「イエスの十字架」は、神に対しても、私たちに対しても、『関係の回復』を与える。[Ⅰヨハネ3:8]   ①「罪の代価」をすべて支払うことによって、神が人に近づくための隔てを取り去った。     ②「罪の赦し」と「神の愛」を明らかにし、私たちが信仰によって大胆に神に近づけるようにした。 ◎もはや神はあなたを責めてはおられない! そして私たちも、誰をも責めるべきではない。[ローマ14:4] ☆今日も『光の神』はあなたを招いておられます! [ヨハネ12:36]     Outline of the sermon    “The barrier Read more…

2012年9月23日 「イエスに倣う者」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ         「イエスに倣う者」      (23/09/2012) [ヨハネ13: 12-20] *先週は「見えない世界」のことだったが、今週は「よく見ること」について。 ◆[15節]-先週は「足を洗う」ことの隠された意味を見たが、今週は文字通り「イエスがした通りに行う」こと。 ・「子どもは親の『言うこと』は聞かないが、『すること』は真似する」と言われる。 子どもに「どう生きればいいの?」と問われて、「私を見ればいいんだよ」と言える親子関係は幸いである。 ◆「キリストに人生を賭ける生き方」の2つのカギ。  ①キリストが私たちをお選びになったのは、「キリストを見倣うことによって、他の人々の模範になる」 ため。 ・大切なのは「見られることを意識すること」ではなく、「ひたすらキリストを見、彼に倣うこと」。[Ⅰコリント11:1] ・私たちがイエスを見倣うべき『究極の模範』=[ピリピ2:5-8] 「自分のあり方を捨てることができないとは考えず…」    ②イエスが行った1つ1つの行為にどんな意味があるかを知る必要はない。[16~17節]     ・「イエスに信頼する」とは、単に「いつも守って、助けてくださる」と信じることではなく、「すべてにおいて彼を 模範にして生きていれば間違いない」と信じ、単純に「イエスが行ったように、行う」こと。     ・イエスは御父に信頼してそのように歩み[ヨハネ5:19]、同様にして私たちをも遣わされた。[ヨハネ20:21]      *イエスでさえ人々に拒絶されたのだから、人々が私たちの証の言葉を受け入れなくてもガッカリする必要   ない。[20節] 私たちの目標は「人々の注目を浴びること」ではなく、『イエスに倣う者』となること。 ◎私たちは「特定の働き」に召されているのではなく、「イエスを模範とする」ように召されている。 ☆私たちの周囲の人々(友人・家族・子供たち)が、私たちを通して『イエス』を見ることができるように、 聖書のみことばを通して、もっともっとイエスを「じっと見つめながら」歩みましょう!   Outline of the sermon    “Those who follow the example of Jesus.”   (23/09/2012) [John Read more…

2012年9月16日 「足を洗われた者は、きよい」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ      「足を洗われた者は、きよい」   (16/09/2012) [ヨハネ13: 6-11] ◆イエスは「足だけ洗えば、全身きよい」と言われた。[10節] 『足』とは、この世との接点であり、全身を支えるもの。 ・「目に見える部分(行い)」だけを変えても無駄。『根(見えない部分)』を処理しなければ、きよくならない。 ◆では、私たちの『根(土台)』とは?= 「自分」 *私たちの判断基準はいつも『自分の益』-「どっちが得か?」「どっちが楽か?」「どっちが楽しいか?」など。   ・私たちはよく「しっかりしなさい!」と言うが、一体何を「しっかり」させるのか?= 『自分』 ◆カギは『自分』ではなく『キリスト』 [8節,Ⅰコリント3:10-11]   ・地震の時、私たちは「ゆるがないもの」を捜した。キリストこそ「ゆるがない土台」[詩篇16:8]   ・「キリストを土台に据える」とは、単に「キリストと共に生きる」ということではない。(➝ ユダの例:[11節])    「自分の目標」と「キリストの目標」のズレ。肝心なのは「自分のためのキリスト」ではなく「キリストのための自分」を見出すこと。 ◆キリストに人生を賭ける。[ルカ9:23-24 ➝ マタイ10:39]   ・「自分を捨てる」とは、「自分を嫌ったりさげすんだりする」のではなく、『真の自分』を見出すための投資。   ・女性が結婚に人生を賭けるのは、「愛されている」と確信するから。私たちがキリストに人生を賭けるのも同じ。   ・キリストが私たちを愛されたのは、私たちも同様に「愛する者」となるため。[Ⅰヨハネ3:16]    私たちが愛せないのは、「愛がないから」ではなく、『自分』が妨げているから。 ☆あなたはイエスに、あなたの『足』を差し出しますか? Outline of the sermon    “A person whose feet got washed is clean.” Read more…

(58) 外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさい。

私たちの人生で「最も貴重なもの」といえば、それは『時間』でしょう。1度失われた時間は、2度と取り戻すことはできません。これだけ便利でスピードの増した時代は、過去にはなかったはずなのに、相変わらず私たちは「時間が足りない!」と言う。これは一体どうしたことでしょうか? たった1度しかない人生を有意義に過ごすには、何としてもこの『時間』というものを正しく使わなければなりません。すなわち「決して取り戻すことのできない『時間』というものを、より有意義に使う」ということです。では、どんな時間の使い方が『有意義な使い方』なのでしょう?私たちは10年後に『もっと優れた自分』になっているために、どんなことに多くの時間を費やすべきなのでしょう?それは『豊かな関係作り』と『優れた本を読むこと』です。そしてまず初めに私たちが読むべき書物、それが「人生のマニュアル」とも呼ぶべき『聖書』なのです。「あ~あ、今日も時間がないから、聖書を1ページも読む時間がない…」と言ってあきらめないで、半ページでも、3行でもよいから「少しでも目を通す」習慣をつけましょう。「塵も積もれば山となる」と言いますが、1週間全く聖書を読まなくなるところだったのが、気づいてみれば2章も3章も読めた、ということになるかもしれません。 オズワルド・サンダースという人が、『時間の有効利用』について、次の3つのポイントを指摘しています。 ①「時間の漏れをなくす」:時間の計算をするときに『何時間単位』で計るのではなく、『何分単位』で数えるようにする。10分刻みの時間を大切にするよう心がけたら、おのずと1時間ごとの時間を無駄にすることはない。 ②「優先順位をはっきりさせる」:多くの時間が『2番目以下に大切なこと』に費やされている。そのため『最も大切なこと』に使われる時間が足りなくなり、私たちの生活を破壊する。これは「目に見えるもの」にばかり振り回されて、最も大切な「目に見えない、内面的なこと」をおろそかにすることと同じである。 ③「計画的に行動する」:計画無しに行動することは、「失敗の計画」を立てているようなものである。状況にばかり流されているなら、何も成し遂げることはできない。「私が今日成し遂げるべきことは何でしょう?」と神に尋ねながら、日々を進んでいくべきである。 あなたの今日の歩みが、10年後の「より優れたあなた」へと導きますように。