(257) “思いの一新によって変えられなさい。”

人生って「楽しいこと」ばかりじゃありませんよね?神を信じているか否かに関らず、困難や試練は容赦なく襲いかかってきます。ところで知っていましたか?それらの『人生の試練』に屈してしまうかどうかは、「その試練の大きさ」や「その人がどれだけ強いか」にかかっているのではなく、「その試練に立ち向かう態度」すなわち『心の持ち方』次第だということを。 ある人々は、人生の試練に直面すると「これはとても自分には乗り越えられない」とか「もしもう1度同じようなことが起こったら、あきらめるしかない」などと決めてしまって、ある意味困難が襲いかかって来る前に、既に『敗北宣言』をしているのです。私たちの『思い』のうちにある「あきらめムード」こそが、私たちを打ちのめす最も強力な敵なのです。 私たちはこのような『敗北に向かわせる傾向性』の代わりに、むしろ「この困難は私をより強くさせるための神からの訓練である!」「試練が大きいほど、それを乗り越えさせる神の助けは更に大きい!」というような『肯定的・積極的な心の態度』を培うべきです。そしてそのような心の姿勢は「神のことばに従って『自分の思い』を一新させること」からやってくるのです。

2017年5月7日 「『義と認められる」ということ」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ     「『義と認められる』 ということ」   (07/05/2017) ◆神のご性質 [詩篇116:5] ・神のご性質をひと言で言うなら、それは「愛と義」。これはイエスの内にも満ちていた。[ヨハネ1:14] ◆姦淫の女とイエス [ヨハネ8:2-11] ・この最後のひと言は、まさに今日もイエスが私たち1人1人に語りかけておられる言葉。       「わたしもあなたを罪に定めない。これからは決して罪を犯してはなりません。」 ・ところで、何故ここで「自分には罪なんかない!」と主張する者が1人もいなかったのか? → 目の前に「真に罪のない方」がおられたから。 ◆イエスこそ 『神の義』 ・人は、イエスと出会うまでは、真の意味で『自分の罪』が分からない。 『罪』とは、「誤った行為」ではなく、「神からズレていること」 ・イエスは「神の満ち満ちたご性質の現れ」であった。私たちがイエスの前に立つなら、自分がいかに神を無視 し、その主権を認めず、自分勝手な生き方をしているかを思い知らされる。 ・しかし、イエスはそんな私たちを「罪に定めない」とおっしゃる。何故なら彼は、それらの罪を「罪のないご自 身」の肩ですべて負われるために来られたから。[Ⅱコリント5:21]   ◎イエスは、私たちの罪を「指摘するため」に来られたのではなく、私たちがそれに 「自分で気付き、神の前に悔い改め、赦しを受けるため」に来られたのです。   Outline of the sermon       “Our righteousness.”      (07/05/2017) ◆The Deity. [Psalm116:5] ・If we describe God’s character in one word, Read more…

(256) “神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。”

誰でも「問題のない人生」を望みます。しかし実際は「生きている限り問題に直面する」というのが現実です。ですから私たちの問うべき質問は「自分の人生にも問題は起こるだろうか?」ではなく、「問題が起こった時に、どう対処するべきだろうか?」なのです。 あなたの人生に問題が生じた時、あなたは誰に頼るのでしょうか? 親?友だち?それとも自分自身? 聖書は私たちにもう1つの、そして他の誰よりも確かに信頼できる存在を紹介しています。それはこの天地万物を造り、今も支配しておられる『創造主なる神』です。そしてこの『神』は、「私たちがご自身の許に身を避け、信頼を寄せる時に、私たちを苦しみから救い出してくださる方である」と証言しています。 しばしば聖書は私たちに「試練を喜ぶように」と勧めています。常識的に考えれば愚かしく聞こえます。何故なら、この世の価値観は私たちに『安全』や『問題のない人生』こそ善であると教えるからです。しかし私たちをこよなく愛しておられる神様は、私たちをご自身の許に引き寄せるためであるなら、人生の問題をも用いることが出来る方なのです。 神と人々とを憎んでいる悪魔は、私たちが恐れたり悲観的になったりするのが大好きです。しかし私たちが試練の中でも神に信頼し喜んでいる姿を見ると、なす術を失うのです。すなわち私たちが、周囲の状況や己の限られた能力に頼るのではなく、「神に深く信頼することによってのみ得られる真の平安」を見い出しその中に憩うとき、悪魔が張り巡らしている「この世の奴隷とする呪縛」から完全に解放されることができるのです!

2017430 「よみがえられたイエスとの交わり」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ    「よみがえられたイエスとの交わり」  (30/04/2017) ◆[ルカ24:13-32] エマオの途上での出来事 ・「イエスの死」によって完全に希望を失っていた弟子たちが、『復活の主』と出会って変えられた。私たちの 信仰生活も『十字架』ではなく、この『よみがえられたイエス』によって支えられるべき。 ◆「イエスのよみがえり」は、何を意味するのか? ①イエスは「父なる神のみこころ」を完全に成し遂げた。[使徒2:24] ・イエスが「罪なき生涯」を送られたからこそ、サタンは『死』の力によってイエスをつなぎとめることができなか った。父なる神は、このひとり子の生涯に満足された。[イザヤ53:10-11] ②罪の代価はすべて支払われた。 ・イエスが死を打ち破り、よみがえられたことは、もはやサタンが人間を「罪と死の力」によって支配すること ができなくなったことを証明した。[ローマ8:1] ・私たちの過去・現在・将来の罪の代価すべては、主イエスの十字架の死によって『支払い済み』となった。も はやサタンは私たちに何も要求する権利はないし、「死の恐怖」によって脅すこともできない。[ヨハネ11:25] ③私たちは今や「自分自身」ではなく、『神』に頼って生きるべき。[Ⅱコリント1:9] ・もはや人に弁明したり、自分を正当化したりする必要はない。神は知っておられ、公平にさばかれる。 ・私たちがしばしば試練に遭うのは、このことを思い起こさせるため。   ◎ 使徒たちのメッセージの中心は「イエスはよみがえって、今日も生きて働いておられる」 だった。  それは、今日も同じ! [使徒4:10-13]   Outline of the sermon     “Fellowship with risen Jesus.”    (30/04/2017) ◆[Luke 24:13-32] An incident on the way to Read more…

(255) “心に不安のある人は沈み、親切なことばは人を喜ばす。”

オペラ史上最も有名なテノール歌手の1人に「エンリコ・カルーゾ」というイタリア人がいます。実は彼がまだ10歳の時、彼はレッスンの担当者から「キミは全く才能のかけらも無いから、この道はあきらめた方が良い」と言われたのでした。しかし彼の母親は息子の才能を信じて疑わず、貧しさの中で大きな犠牲を払いつつ、彼のためにレッスンの費用を捻出し続けました。そしてこの母親の励ましは、まだ幼かったエンリコの心に大きな自信と勇気を与え、歴史は『専門家の評価』ではなく『息子を信頼し続けた母親の評価』の方が正しかったことを証明したのです。 この世界はしばしば私たちを『見た目』だけで評価し、こき下ろします。だからこそ私たちは「自分を信じてあきらめることなく励まし続けてくれる存在」を必要としています。そして特に子供たちにとっては、まずその親たちがそのような存在であるべきなのです。下記に「子供の視点で書かれた『親たちへのお願い』」を列記します。 1.「ボクが上手にベッドメイキングできなかったり、上手に絵を描けなかったり、上手にボールを投げられなかったとしても、あんまりガッカリしないでね。だってボクの手はまだ小さいのだから。」 2.「あんまり早く歩かせようとしないで、アタシと一緒にゆっくり歩いてね。アタシの足はまだ短いのだから」 3.「ボクに少しずつ冒険をさせて、世界がどんなに大きいのか見つけさせてね。ボクの目はまだまだ見たことのないものがたくさんあるから。」 4.「少しずつ、でももっともっとたくさんのお手伝いをさせてね。そしてゆっくりと丁寧に教えて欲しいの。だってお手伝いは逃げないし、アタシにはまだまだ時間がたっぷりあるんだから。」 5.「そんなに1日中ガミガミ言わないで、自分がしてもらいたいのと同じように優しくしてね。ボクの心だってデリケートなんだよ。」 6.「誰かが言ってたけど、アタシは神様からアナタへの贈り物なんだって。それってホント?だとしたら、アタシはアナタにとって『大切な宝物』なのね!それじゃアタシがアナタの他の宝物よりももっと素晴らしく輝けるように、立派な大人へと育ててね。」

(254) “この地上には、善を行い、罪を犯さない正しい人はひとりもいない。”

誰でも1つや2つは、日々の生活の中で陥りやすい『悪い傾向性』を持っているものです。「アルコール依存」「浮気や不倫」「すぐ怒りが爆発する」「悪いうわさ話」「憎しみや嫉み」「盗み癖」「すぐ嘘をつく」「ギャンブル」などなど。ある人々は「親から受け継いだ悪習慣だから仕方ないさ」と言うかもしれませんが、聖書に照らし合わせるならば、これは「親からの遺伝」ではなく、むしろ「初めの人『アダム』から引き継いだ『霊的遺産』」、まさに「そう生まれついた性質」なのです。 『神のかたち』に造られた私たちは、誰でも「正しい生き方をしたい!」という願いを持っています。しかし私たちの始祖アダムが神に反逆して以来、私たち人間に染み付いてしまっている『罪の性質(自分を第1優先にしようとする性質)』が「神を喜ばせようとする願い」に戦いを挑み、勝利してしまうのです。私たちは「罪を犯してしまったから『罪人』となる」のではなく、「生来の『罪人』なので罪を犯してしまう」のです。 それでは、私たちにはもう希望がないのでしょうか?一生『罪の性質』の奴隷となり「神に喜ばれる者として生きること」をあきらめなければならないのでしょうか?キリストの使徒パウロは、次のように言っています。「私には善をしたいという願いがいつもあるのに、かえってしたくない悪を行っています。私は本当にみじめな人間です。だれがこの『死のからだ』から私を救い出してくれるのでしょうか?」「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します!なぜなら、キリスト・イエスにある『いのちの御霊の原理』が、罪と死の原理から私たちを解放してくれるからです。」 『霊的戦い』は、私たちの戦いではなく「神が勝利を与えてくださる戦い」です。神は私たちを『死のからだ』から『まことのいのち』に移すために、ひとり子イエス・キリストをこの地上に送り、私たちの身代わりに十字架にかからせ、そして3日目によみがえらせてくださいました。それがこの週末に世界中の教会でお祝いされている『復活祭(イースター)』なのです!

2017年4月9日 「2つの死」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ            「2つの死」         (09/04/2017)      *先週は「キリストのいのちが与えられていること」を学んだが、『新しく造られる』ためには、        もう1つ「古いいのちに死ぬ(自分のいのちを愛することをやめる)こと」が求められる。[ヨハネ12:24-25] ◆「古いいのちに死ぬ」とは? ①「この世とうまくやって行こうとすること」 に死ぬ。[ガラテヤ6:14] 世界は私に対して十字架につけられた ・この世が私たちに提供できる最上の宝を失ってでも「キリストと共に歩むこと」を敢えて選択する者だけが 「キリストのうちにある新しいいのち」によって生きる真価を味わうことができる。 私も世界に対して十字架につけられた ・「この世の自分に対する評価」からの解放。 ②神の祝福を「勝ち取ろう」とすること に死ぬ。[Ⅱコリント12:9] ・悪魔がクリスチャンに対してしかける最大のワナは、「行いによって神にアピールしよう」とさせること。 その目的は、私たちを『高慢の落とし穴』に連れ込むため。 ・自分の行いの本当の動機を探ろう! ― 「神と人々への純粋な愛」に満ちているか? 「自分がそれをしたことに誰も気付かなくても、ハッピーか?」 「自分が思い描いていたような結果を生み出さなくても、喜べるか?」 ◆『よみがえり』 は 『死』 の向こう側にある ・神はしばしば、ご自分が招いた人々に『死』を通らせた。(例:ノア,アブラハム,モーセ,預言者たち,ペテロ,パウロ…) ◎ 「自分の 『古いいのち』 を愛すること」 に、死にましょう!   Outline of the sermon     “Dying in two areas Read more…

(253) “正しい者は、自分の家畜(動物)のいのちに気を配る。”

ある人が休日に旅行に出かける計画を立て、旅行先で宿泊予定のホテルにこんな問い合わせをしました。「実は私が可愛がっている1匹の犬がいるのですが、一緒に泊まらせていただくことはできますでしょうか?しっかりしつけてあるので、決して他のお客様にはご迷惑をかけないと思うのですが…」 すると、ホテルの方から次のような返答が来ました。「当ホテルは開設以来30年が経ちましたが、未だに犬がタオルやベッドシーツ、また壁にある高価な絵などを盗んで行ったことはございません。また犬が酔っ払って暴れたり、ホテル代を払わずに帰ってしまったこともございません。ですから、もちろん犬がおいでになることは何の問題もございません。念のため付け加えさせていただきますと、その犬が、同伴される飼い主様の身元を保証してくださるのであれば、その飼い主様のご宿泊も心から歓迎いたします。」 神がこの天と地を創造された時、大地や人間だけでなく、すべての動物たちもお造りになり、「すべては非常に良い」と言われたことが、聖書には書いてあります。事実、多くの「寂しさを抱えた人々」や「傷ついた心」を動物たちは慰め、再び立ち上がる力を与えてきました。統計によると、ペットを飼っている人々の方が、そうでない人々よりも長生きし、病気も少なく、病気からの回復も早く、鬱になる割合も少ないそうです。 私は定期的に『盲導犬育成』の団体を支援していますが、盲導犬の主人に対する忠誠は、知れば知るほど感動させられます。神は私たちに、これらの動物たちに注目させることによって、「私たち自身の生き方」について何かを学ばせようとしておられるのではないでしょうか?