(469) “人を富ませるのは主の祝福。”

 もしかすると多くの方々は「キリスト教徒の人たちは『お金』には関心がない」と考えておられるかもしれません。確かにクリスチャンの方々は『無欲』である傾向があるかもしれませんが、決して「お金に関心がない」わけではありません。面白いことに聖書は『祈り』というテーマに関して述べている箇所が500か所くらいあるのに対して、『富』また『金銭』に関して述べている箇所は2000か所以上もあるのです!もちろんそれらは「どうやって儲けるか」を教えているわけではなく、「『富』というものをどのように賢くしかも公平に取り扱うべきか」について多く語っています。実際この『お金』というものを正しく扱うことができないために、多くの人間関係(夫婦関係も含めて)が壊されているのです。  神様は私たちを『精神的』な面だけでなく、『経済的』にも祝福したいと望んでおられます。しかしもちろん「気違いに刃物」を渡すようなことはしません。すなわち、私たちを経済的に祝福する前に、まず私たちが「正しく公平に『富』というものを扱える者」となれるよう、教育してくださいます。だからこそ『富』に関して聖書を通して多くを語ってくださっているのです。基本的に『富』は「楽な人生を送るため」に与えられるのではなく、「相応の労苦を積んだ報酬」として与えられるものです。それを「楽をして多くの富を得ること」を目的として詐欺や盗みを働いたり、高給を求めて地位や名誉を追い求めたりすることを、神は決して喜びはしません。  イエス・キリストを信じ従う人々は、『富』というものは「追い求めるべきもの」ではなく、「神が喜ぶことを求め、人々を愛して生きること」の結果として『神から与えられるもの』であることを知っています。だからこそ彼らの生き様は人々の目には『無欲』に映るのです。

(468) “もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、あなたがたは柔和な心でその人を正してあげなさい。”

 大変残念なことですが、多くの人は『真実の愛』をもって「耳の痛い忠告をしてくれる友人」を持っていません。たぶんその大きな理由の1つは、日本のことわざに「触らぬ神に祟りなし」と言われているように、相手が喜ばないことは言わないでいる方が気楽だからでしょう。言い換えるなら、「長きにわたる真実の友情を築くよりも、目先の関係を保つことを重視」してしまうのです。  あるところに「ブレーキの利きが悪い車」があったとしたら、あなたは自分の愛する人にそんな車を運転することを勧めるでしょうか?そんなことをするわけないですよね?たとえその相手がどんなに「私は急いでるんだから、とにかくこの車を今すぐ使わせてよ!」と声を荒げてあなたに迫ったとしても、あなたは決してその車の鍵を渡さないはずです。「こんなところで言い争いをするのは嫌だから、ともかく運転させてあげよう」とは決して言わないでしょう?  もちろん、「人のあら捜しをして、その欠点を積極的に指摘した方が良い」と言っているわけではありません。思慮の無い忠告は人を深く傷つけることがあります。ここで言っているのは、『真の思いやり』というものは、たとえその場では相手に嫌われてしまうことがあったとしても、誠実さと断固たる態度を持って、相手にとっての『最善の道』を提供することなのです。本来『愛』というものの性質は「相手の最善のために、自分自身が払う犠牲を惜しまないこと」。そしてそんな『愛』の完全な模範はいつでも、「私たちと神との関係を回復させるために、十字架の上で命をささげたイエス・キリストの姿」なのです。

2021年12月12日 「わたしに何をしてほしいのか?」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ     「わたしに何をしてほしいのか?」    (12/12/2021) [マルコ 10:46~52] ◆強い願い [46~48節]   ・エリコは古くから「エルサレムへの途上の宿場町」として栄えていた。この盲人はイエスのうわさを聞いて以来「この方はきっといつかエルサレムにいらっしゃるに違いない。その時が自分にとってただ1度のチャンス」と   思っていたのかもしれない。そして『その時』が訪れた。もはや彼を止められる人は誰もいない。 ◆神のあわれみ [49~52節]   ・必死の叫びはイエスに届いた!「心配しないでよい…」の言葉は、イエスを求める人々への私たち皆のセリフであるべき。私たちは人々を『イエスの許』に連れて行く存在。50節のバルティマイの反応は注目に値する。   ・「何をしてほしいのか」は無意味な質問に聞こえるが、イエスは敢えてバルティマイに『切なる願い』を口に出させたかった。そして彼の目は開かれ、彼は「イエスについて行った」。これがイエスと出会った者の当然の反応。   ・ダビデには『ただ1つの願い』があった[詩篇27:4]。あなたの『ただ1つの願い』は何か?主はあなたの『本気』に答える用意がある。イエスがバルティマイにそうしたように、あなたの心を既に知っておられてもなお、敢えてイエスがあなたに言わせたくなるような『切なる願い』を抱いて、今週も大胆に神に近づこう! ✰今日のキーワード: ただ1つの願い ◎更に深い学びのために  ①「イエスが近くに来ておられる」と知った時のバルティマイの思いはどのようなものだったでしょうか?  ②イエスは何故あえて「私たちの願い」を口に出させるのでしょう?  ③あなたの『切なる願い』は何ですか? もしはっきりしないなら、主に心を探っていただきましょう。 Outline of the sermon      “What do you want me to do?”      (12/12/2021) [Mark 10:46~52] ◆One desire. [Verses 46~48]   ・Jericho has Read more

(467) “主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟ることである。”

 誰もが「幸せになること」を望んでいるのにもかかわらず、真の『幸福感』を味わっている人はあまり多くはありません。(ちなみに私はその少数のうちの1人ですが…)一体何故なのでしょうか?次の3つの理由が考えられます。 ①『幸せ』を間違った場所で捜している  ・多くの人々は「もっとお金があったら…」「もっといろんなことができたら…」「あんな家庭に生まれていれば…」などと、幸せでないことの原因が自分の環境にあると勘違いしていますが、実際にそれらの環境がすべて揃ったところで幸福感が得られるわけではありません。お金も能力も兼ね備えながら不幸せであったり、何不自由なく育ちながら非行や引きこもりなどに陥ってしまっている人たちはいくらでもいます。私たちの内側には、人や物では埋めることのできない、「神との生きた関係によってしか決して満たすことのできない空間」があるのです。 ②「自分自身の幸せ」ばかりを追求している  ・どんなに「自分自身のため」に何かを求めても、その求めていたものを手に入れた途端に虚しさに陥ってしまうものです。何故なのでしょう?それは、人間は本来「他の誰かの助けになるように造られている」からです。私たちは「自分自身のため」に生きている間は真の満足感を得られない生き物なのです!私たちが「他の誰かが幸せになる」のを助けている時、自分の満足を追い求めていた時には思いつくこともできなかった『幸福感』を体験できるのです。 ③他の人と自分を比べている  ・よくあることですが、やっとの思いで手に入れた品物や技術も、それに優ったものを持っている人と比較した途端に無価値なものに思えてガッカリしたりします。何て愚かなことでしょう!神は私たち1人1人を『比較できない違った存在』としてお造りになったのです。それは互いに尊重し合い、また足りない部分を補い合うためです。 こういうわけで、人にとって「『創造主なる神』を知ること」と、「『真の幸福感』に満ちて生きること」とは決して切り離しては考えられないものなのです。

2021年12月5日 「仕える者となる」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ      「仕える者になりなさい」     (05/12/2021) [マルコ 10:35~45] ◆『栄誉(報い)』を求める心 [37,41節]   ・ヤコブとヨハネだけでなく、2人に腹を立てた弟子たち全員が「誰が1番偉いのか」ということにこだわっていた。イエスに従い始めた頃は皆「すべてを捨ててイエスに従う」という純粋かつ確固たる献身の思いを抱いていた   はずだが、この『献身』は日ごとに更新されなければならない。[ルカ9:23] 「自分の十字架を負って」とは、「日々おのれに死ぬこと」であり、また「十字架によって結ばれたイエスとの関係を毎日思い起こす」ということ。◆「仕える者」となる [43b~45節]   ・イエスは「真の栄誉を求めるなら、『仕える者』になれ」とおっしゃった。「自分もそのために来たのだから」と。そして彼にとって『仕える』とは、「自分のいのちを与えること」だった。『贖いの代価』とは、「私たちの罪(神に対する的外れ)のための代価」。これを受け取りながら、相変わらずこの世の栄誉を求め、神から目をそらして生きているなら、それは「再度イエスを十字架にかけること」にほかならない!   ・パウロは地上での人生を次のように描写した。[ガラテヤ6:14] 『主にある歩み』とは、この世で得をすることを求めず、『天での報い』を望み見ながら、この世では『与えること』を心がけて生きることではないだろうか?✰今日のキーワード: 受けるより、与える ◎更に深い学びのために  ①弟子たちが『初心』を忘れてしまったのはどうしてでしょう? どうすれば『初めの愛』を保つことができますか?  ②イエスにとって「仕える」とはどんなことでしたか? 私たちが「互いに仕え合う」には、どうすれば良いでしょう?  ③[ガラテヤ6:14]を深く黙想しましょう。『世』、また『自分』がまだ十字架につけられていない部分はどこですか? Outline of the sermon        “Be a servant.”        (05/12/2021) [Mark 10:35~45] ◆Seeking to “honor ourselves”. [Verses 37,41]   ・Disciples forgot their “original Read more

(466) “イエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ているのです。」”

 『何をするか』ということと、『それをいつするか』ということは同じくらい大切です。せっかくの素晴らしいアイディアや計画も、タイミングを間違えると台無しになってしまうことがありますよね?  誰でも知っている英語で『グッドタイミング(Good Timing)』というものがありますが、私たち「神を信じる者」が使う、これに似た言葉で『ゴッズタイミング(God’s Timing)』というものがあります。これは「神が用意しておられる絶妙なタイミング」のことで、しばしば私たちが望んでいるタイミングとは異なるのです。  私たちは『善は急げ』と言って、良いアイディアが浮かぶとすぐに行動を起こそうとします。確かにそれがうまく行く場合があることは認めます。しかし「慌てる乞食は貰いが少ない」ということわざもありますよね。「自分のアイディア」「自分の都合」のことばかり考えて行動しようとすると、『最善の結果』を得られないで終わってしまいます。そして多くの場合は「神の絶妙なタイミング」というものは、私たちが考えているよりもずっと後からやってくるのです。それは何故かというと、神は「与えようとしている物」のことだけではなく、「それを受け取る私たち」をも『最善の状態』に整えようとしておられるからです。  『神の約束』というものはある意味『種』のようなものです。目に見える実を結ぶ前に、深く地中に根を張らなければなりません。またそれは親が子を産み育てることとも似ています。まず胎盤に小さな小さな「受精卵」が着床し、それからゆっくりと時間をかけて子宮の中で成長して行くのです。その間親は何をしているのでしょうか。当然、やがて生まれて来る赤ん坊のことを思い描きながら、出産・子育ての準備をするのです。単に用品を買い揃えるだけでなく、出産や子育てのための情報や知識を得、そして妊婦さんの内面も『女性』から『母親』へと変えられて行くのです。  天地を造られた全能の神は、私たち1人1人に「何が必要」で、それを「いつ与えたら良いか」をよぉくご存知です。ですから慌てることなく、『ゴッズタイミング』を信じて待ち望みながら、それを受け取るまでに神が教えようとしておられるレッスンをしっかりと学び取って行きましょう!

2021年11月28日 「キリストとの関係」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ      「キリストとの関係」     (28/11/2021) [マルコ 10:32~34] ◆エルサレムに向かうイエス [32節]   ・この時のエルサレムに向かうイエスの雰囲気が並々ならぬ様子であることを感じ取った弟子たちは、多少の戸惑いを感じているようである。他にもイエスについて行っていた人たちが「恐れを覚えた」というのがどういうことかはっきりとは分からないが、ルカの福音書の記述(13:33)から、人々が『預言者』と認めていたイエスがエル   サレムに向かおうとしていることに胸騒ぎを感じていたのかもしれない。 ◆イエスの受難と私たち [32b~34節]   ・イエスの受難告知を聞いても、弟子たちがイエスの身を案じている様子は見られない。次週の内容を見ると、むしろ「自分たちのこと」で頭がいっぱいのようだ。対照的に(ヨハネの福音書によると)べタニアのマリアは「イエスの埋葬の準備」をする。ここに「自分のためのイエス」と「イエスのための自分」という2つの考え方が見られる。   ・私たちはどうだろう?もちろん「イエスのために何かができる」などとはおこがましいが、少なくとも「心を込めてイエスに従う者」(コロサイ3:23)でありたいのでは?イエスが私たちに求めておられるのは、たった1つ。それは『真実な関係』。彼は「信頼できる友」を欲している。あなたは、そんな『キリストの友』として生きたいですか? ✰今日のキーワード: イエスのために ◎更に深い学びのために  ①この時の「エルサレムに向かうイエスの思い」を想像してみましょう。どんな新しいことに気付かされますか?  ②「自分のためのイエス」と「イエスのための自分」とではどう違うでしょう? 自分に照らし合わせるとどうですか?  ③イエスが求めておられるような『関係』に生きていますか? そうでないならどこから変えて行けば良いでしょう? Outline of the sermon     “Relationship with Christ.”    (28/11/2021) [Mark 10:32~34] ◆Jesus, heading to Jerusalem. [Verse 32]   ・Those who were following Read more

(465) “何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。”

 ある人がリトルリーグの野球の試合を見に行った時のことです。ベンチで声援を送っている少年に声をかけ「今は何対何でどっちが勝ってるんだい?」と尋ねると、「うん、18対0でウチが負けてるんだ」との答え。ちょっと気の毒になって「それはガックリきてるだろうねぇ?」と問うと、少年は元気よく答えました。「まさか!どうしてガッカリする必要があるのさ?だってまだ試合は1回の表で、ボクたちは1度も攻撃してないんだよ?!」  どういうわけか、私たちは大人になるにつれ『夢』を見られなくなり、『希望』を抱きにくくなる傾向があるようです。情勢を見て嘆き、周囲の否定的な言葉に影響されて心を落ち込ませてしまいます。しかしある心理学者は言いました。「私たちの幸福感は、自分の心が何とつぶやいているかよりも、自分の心に何を語りかけるかによって保たれる」と。  「神を信じて生きること」と、「運命に従って生きること」とを混同してしまっている人がいますが、これは誤りです。神は「全てを決めてしまっている」のではなく、「全てを知っておられる」のです。しかし敢えてそれを人に知らせることはせず、かえって人に『自由意志』をお与えになりました。それは、私たちが「神が自分自身に与えてくださっている大いなる可能性」を信じて、大志を抱いて1日1日を前向きに生きて行って欲しいからです。  さあ、あなたは今日『自分の心』に、どんな希望のメッセージを語りかけながら進んで行きますか?